□ 石田波郷第二句集『風切』Ⅱ(53)

(「秋」より)

  大東亜文学者会 二句
菊の香や誓をおらぶ斎藤劉
芸文や国力なす菊の前


今日から上の二句について、鑑賞したいと思います。まずは一句目。

  大東亜文学者会 二句
菊の香や誓をおらぶ斎藤劉

まずは、前書の「大東亜文学者会」とは何か?

正式には、「大東亜文学者大会」のこと。
Wikipedia の記述によれば、

第二次世界大戦中に国策(戦争)協力を目的として、日本文学報国会などが中心になって1942年から1944年まで3度開催された文学者の交流大会。

とあります。重要なのは「日本文学報国会」というものの性格でしょうから、まず「日本文学報国会」から説明します(知っていらっしゃる方も多いと思いますが)。

日本文学報国会(にほんぶんがくほうこくかい)

文学団体。大平洋戦争下の1942年(昭和17)5月、日本文学の顕揚を目的に、全文学者が大同団結して結成された。内閣情報局と大政翼賛会の勧奨によるもので、文学活動に対する統制であった。会長は徳富蘇峰(そほう)。小説、劇文学、評論、随筆、詩、短歌、俳句、国文学、外国文学の八部会からなり、会員約4000名を擁した。おもな事業として、大東亜文学者会の開催や、文芸報国講演、傷病兵慰問文藝運動などを行い、また、『愛国百人一首』(短歌部会)、『国民座右銘』(評論随筆部会)の選定、『大東亜作品集』の出版選定などがあった。いずれも文学による戦意高揚、国策宣伝のためのもので、終戦直後解散した。(日本大百科全書(ニッポニカ)より)

この日本文学報国会結成に先立つ1940年に大政翼賛会が、発足し、岸田國士がその文化部長に就任しています。この1940年に俳句においても「国民詩たる俳句によって新体制に協力」する日本俳句作家協会が結成されています。

日本文学報国会結成後、その企画として「皇国文化宣揚大東亜文学者会議」の準備委員会が作られました。。委員会メンバーは、三浦逸男、春山行夫、川端康成、奥野信太郎、河森好蔵、林房雄、飯島正、一戸勉、吉屋信子、細田民樹、中山省三郎、木村毅、草野新平、高橋広江、金子光晴、張赫目。

そして第一回の「大東亜文学者大会」は、1942年11月3日から一週間開催されました。議題は、「大東亜戦争の目的遂行のための共栄圏内文学者の協力方法」「大東亜文学建設」の2項目でした。

11月3日の開会式は帝国劇場で開催されました。参加者は1500人。司会は、歌人の土屋文明でした。


詳細は、Wikipediaで確認していただきたいのですが、とりあえず重要だと思われるのは、この開会式で、佐佐木信綱、高浜虚子、川路柳虹の自作朗読があったこと、斎藤瀏の宣誓、島崎藤村の音頭で万歳三唱。横光利一が宣言文を朗読したことです。

石田波郷もこの11月3日の開会式に参加していた1500人の中にいたということがこの句で分かります。そして、斎藤瀏の宣誓を聞いた。そのことを詠んだ句が本句です。

菊の香がするなあ。
誓を叫ぶ斎藤瀏がいた。

「おらぶ」は、泣き叫ぶ、大声で叫ぶ、という意味。この句の「菊」は天皇を指しているのは明らかです。

今日はこのくらいにして、この続きは明日に。

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黒北風や樅の激しき息遣ひ  森器

大窓のひかり撓みぬ春北風

春北風や白きポルシェの駐車場

春北風に竹叢騒ぐ午下の塚

ひゅうと鳴り爆ぜる春北風星明り


採血の針孔七つ腕にあり若きOZAWAの幻想が鳴る

待合の椅子に眠れる患者なりテレビは若き議員を映す

また医師の交代言はれはつきりと分かりましたとそれだけを言ふ


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2月26日(月)に通院。いつものように血液と尿の検査のあと、診察を受けました。
結果は、現状維持。しぶとく徳俵で足を残しているといった感じです。

血管が細くかつ動くらしく、採血をするだけで、看護師さん三人がかり、30分以上の時間がかかってしまいました。短歌に詠んだとおり、針の孔は両腕に7か所。腕は絆創膏があちこちに貼られ、針をうたれた場所は内出血をしていて若干の疼きがあります。

採血だけでこんなに苦労するのに、いざ手術となったらどうなるものかと思います。しかし、なるようにしかなりませんね。心配しても仕方がありません。

もう少し暖かくなったら、もっと積極的に外に出てゆきたいと考えています。そうすれば、きっと血管の状態も改善するでしょう。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。