□ 石田波郷第二句集『風切』Ⅱ(49)

(「秋」より)

露葎鴉のあそぶ松少し

季語は、「露(つゆ)」の傍題、「露葎(つゆむぐら)」で、三秋。

露が残っている雑草のある秋の荒地に鴉が遊んでいる松が数本あるという景です。ただ、それだけの景ですが、波郷の当時の孤独感がひしと伝わってきます。彼もまた鴉と同じように言葉という松の木と遊ぶしかなかった。そんな印象を受けます。

日曜の露おもたしや猫じやらし

季語は、「狗尾草(ゑのころぐさ)」の傍題、「猫じやらし」で三秋。
「露(つゆ)」も季語で、三秋。

俳人として生きようとしている波郷に日曜日は意味のないはずですが、その彼が「日曜の露おもたし」と言っています。「露」は、おそらくは、「猫じやらし」についた朝露だと思います。定職を失ってみるとこの日曜の休日という習慣がおもたく感じられるわけですね。羨ましいというか、妬ましいというか、きっとそんな感情ではないでしょうか? 「猫じやらし」という季語もよく効いている気がします。こうした波郷の心情吐露は、『風切』の面白いところです。

露光る教師かこまれ来りけり

季語は、「露(つゆ)」で、三秋。

『波郷百句』による自解があります。

駒場には一高がある。新秋新学期の風景。小学校教師と子供の句に非ずやといふ者もあらう。

「露光る」という季語からうかがわれることは、波郷が、この一高の教師と学生との関係を羨望の思いで見ていたであろうということです。教師の立場でも、学生の立場でも構わない、とにかく良好な師弟関係に憧れるところが強かったのでしょう。それは師五十崎古郷や師水原秋櫻子との関係や、波郷の弟子と見られる俳人との関係にも強く現れています。波郷という人の性格が垣間見える一句です。

昼の虫鬱とあるなり実無柿

季語は、「虫(むし)」の傍題、「昼の虫」で、三秋。
「柿」も季語で、晩秋。

「昼の虫」は、むろん波郷自身でしょう。「実無柿」は文字通り実のならない柿で、まだ若い柿か、剪定のゆきとどかない日当りの悪い柿か、そんなところでしょう。

昼の虫がどこか鬱々と鳴いている。
実のならない柿の木の下で。

くらいの句意と思われます。韻文俳句を興そうという意気込みとは裏腹に、なかなかこれだといった収穫がないように感じたのでしょう。この自身に対する厳しい目がなかったら、波郷と言えども名句は生まれてこないということが分かります。

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春めくと雲に古城の形あり  森器

八重椿大地は嘘をつくけれど

凍解を待つや爪痕地図にあり


鉄塔の白き光を放ちてはまだ歩まむとするわれを励ます


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昨日の朝から、腹を壊してしまい、いまこれを書いている間も腸の違和感に悩まされています。多分、鮭のハラミの焼き魚がいけなかったのではないかと思います。それで、駄句三句と短歌一首を作るのが精一杯となってしまいました。

今、「マルクス・ガブリエル 日本社会への問い 欲望の時代を哲学するⅢ」(NHK出版新書)という本を読みました。いくつか興味深い論点はありますが、ご紹介したいことのひとつにアメリカという「帝国」が崩壊しつつあるという知識人の共通認識がこの本にも触れられていることです。

エマニュエル・トッドも言っていたのですけれど、マルクス・ガブリエルはアメリカという国が世界中から嫌われ始めているということを指摘しています。彼はアメリカを「歴史がない国」ではなく「記憶がない国」であると分析しています。したがって、アメリカ社会は短期的には効率的、しかし、長期的に物事を考え、計画する人々に相対することができないと批判しています。

しかし、一方で、民主主義を非効率だとして否定的に見る考え方にも批判の目を向けています。ごくごく簡単にまとめてしまうと、強力なトップダウン、つまり独裁者による支配が、必ずしも効率的とは限らない、現代の問題を解決してくれるとは限らないということ。言い換えると、独裁者が地球温暖化のようなグローバルな問題を解決しようと考えたりすることはない(環境に悪い戦争をしようとしている)。たとえ遅いように見えても民主主義は前に進んでいるという主張です。

「社会的に複雑な問題に対して、どうやって最適解を得るのかと言えば、それはできる限り多くの人々の意見を聞くことによってですよね。民主主義は、ばかげたものを取り除きつつ、できる限り多くの人に尋ねるための手法なのですから、その存在意義を疑う余地はありません。」(マルクス・ガブリエル)

詳細は、本書をお読みください。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。