□No.266再考 石田波郷第二句集『風切』Ⅱ

芋の葉の八方むける日の出かな

朝顔は乾きそめたる芋の露

朝顔の紺のかなたの月日かな


昨日、記事に致しました次の波郷三句をもう一度考えてみることにしました。
この句につきましては、何人かの方からご意見をいただきました。心から感謝申し上げます。

まず、一句目。

芋の葉の八方むける日の出かな

この句については、「むける」という言葉が、「向ける」なのか「剥ける」なのかが、問題となります。結論から言うと、これは「向ける」ではないかと思われます。

私の最初の直感的解釈は、「向ける」でした。早朝の芋畑の風景を詠んだ句だと思いました。

しかし、「剥ける」で鑑賞したという意見も全く的外れの見方ではないと思います。戦時中の庶民の生活を映し出したともとれる句です。

ただ、あるブロガーさんから、「剥く」であるならば、「芋の葉を八方に剥き(く?)日の出かな」となるだろうというご指摘を受け、これに納得しました。

もともと「むける」とひらがなで書いてあることが不思議なわけです。

曲解かもしれませんが、私は「芋の葉」を俳句界全体と解して見ました。俳句界が爛熟期に入って、さまざまな方向に向いているところに、韻文俳句という朝日を見たという波郷の心情を表しているとは解したいと思います。

朝顔は乾きそめたる芋の露

まず、訂正しておかなければならないのは、この句の「そめたる」は「染めたる」ではなく「初めたる」であるということで、これもブロガーさんの指摘が参考になりました。

朝顔は、正岡子規、高浜虚子と繋がっていくホトトギスのことを指すとのご意見もありました。だとすると、「芋の露」は「芋の露連山影を正しうす」の蛇笏のことを指すのでしょう。

波郷は戦後、「飯田蛇笏の死をいたむ」という追悼文を朝日新聞に投稿しています(昭和37・10・5)。ここで、波郷は飯田蛇笏の俳句の格調の高さや艶美な官能的世界を高く評価しています。

このことを踏まえて、「朝顔すなわちホトトギスのあの潤いのある美しさは乾き失われはじめている、その中で、飯田蛇笏の句だけが、ホトトギスの伝統を引き継いでいるのだ」と言いたかったのではないかと思いましたが、どうでしょうか?

朝顔の紺のかなたの月日かな

あるブロガーさんは、朝顔の次の句を示されています。

この頃の蕣藍に定まりぬ  正岡子規
暁の紺朝顔や星一つ  高浜虚子


朝顔が、この二人のこと、つまりホトトギスの伝統そのものを指しているとすれば、次のような句意となると思われます。

今朝、朝顔が咲いていて、その紺色をじっと見つめていたら、
そのはるかむこうに子規、虚子へと繋がる近代俳句の歴史(月日)を感じとったのだったなあ。

以上、三句をブロガーさんの指摘を参考に解釈してみました。あくまで、こう読めるのではないか? という一案に過ぎません。

三句ともに、その背景には、韻文俳句を興そうとした波郷のやや力余る意気込みがあったのでしょう。その心意気を感じとれれば、この三句は理解できたということだと思います。

この見解に異議のある方もいらっしゃるとは思いますが、一応、この三句の解釈・鑑賞はここで終止符を打ちたいと思います。もちろん、この三句に関する疑問、ご意見等については、コメント欄ないしメッセージにて受け付けます。その中で、貴重なものにつきましては、ブログに掲載したいと存じます。

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春一番もの飛ぶ音に隠れ猫  森器

春一番切り損なひし枝しなる

春一番リードを伸ばす小犬たち

春一の風に押さるる盆の窪

ボンボンの火酒の甘し春一番


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昨日、関東地方では春一番が吹きました。昨年より二週間ほど早い春一番で、とても暖かく、まだ2月だというのに最高気温が20℃近くに達しました。

また暖かい風が吹いていたのが、昨日のコメント欄とメッセージでした。貴重なご意見をくださった方に心から感謝申し上げます。

今日、もう一度読み直した三句については、もっともっと意見の欲しいところです。何か気がついた点がありましたら、メッセージでも構いませんので、コメントして下さい。

『風切』を読みすすめるうちに石田波郷という人の人間像が少し見えてきたような気がします。これもフォロワーの皆様のおかげだと思っています。深くお礼申し上げます。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。