□ 石田波郷第二句集『風切』Ⅱ(45)

(「秋」より)

松籟や秋刀魚の秋も了りけり

季語は、「行く秋」の傍題、「秋の了り(秋の終り、あきのをはり)」で、晩秋。
「秋刀魚(さんま)」も季語で、晩秋。

「松籟(しようらい)」は、松に吹き通る風、またはその音を指しますから、

松に吹き通る風の音がするなあ。
いつまにか秋刀魚の味覚を味わった晩秋さえも
終ってしまったのだなあ。

秋刀魚の食べられる晩秋さえ終わってしまったというのですから、もう次の日は立冬といった日ではないかと思います。冬がそこに迫っていて、松に吹き通る風も冷たく、その音もどこか寒々しい感じがするといった感じでしょう。

「や」「けり」の二つの切字で、視点の変換が行われているのが分かります。焦点が二か所できて、焦点が曖昧になるというのが、この形式に対する批判ですが、このように視点の変換が行われると効果的ではないでしょうか(初心者の私には真似はできませんが)。

通夜の座の端更けにけり十三夜

季語は、「後の月」の傍題、「十三夜(じふさんや)」で、晩秋。

通夜の座の端にいたのだが、
夜も更けてきて、晩秋の肌寒さが身に沁みる
気がつけば、端の少し欠けた十三夜の月が昇って、
寂しげな月光を注いでいるのだ、

くらいの句意でしょうか。どのような方が亡くなったかについては触れられていませんが、通夜という以上、亡骸がそこにあるのでしょうから、戦死ではなく、何らかの病で亡くなった人の通夜と考えるのが自然でしょう。

十三夜の月、つまり「後の月」は、その秋最後の月なので「名残の月」ともいいます。

露時雨猿蓑遠きおもひかな

季語は、「露時雨(つゆしぐれ)」で、晩秋。

「露時雨」とは、秋になって露が一面に降りて、草むらや木立があたかも時雨の降った後のようにしとどになっている状態をいいます。また夜中から明け方にかけて木々の枝に結んだ露滴がぱらぱらと落ちて、まるで時雨の降るような音を立てることもいいます。

ブロガーの方には、俳句をされない方もいらっしゃいますので、「猿蓑」についても触れておきます。

広辞苑によれば、

「猿蓑(さるみの)」
(巻頭の芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」による命名)俳諧集。6巻2冊。去来・凡兆の共編。1691年(元禄4)刊。発句・連句のほか「幻住庵記」などを収め、円熟期の蕉風を示す。俳諧七部集の一つ。猿蓑集。


ということになります。「円熟期の蕉風」ということについては、この猿蓑が書かれた時期、初期蕉風の漢詩文調による風狂精神が影をひそめ、かわりに「さび・しをり・細み」など蕉風俳諧固有の清雅幽寂の世界が創出され、それが本書に結実されているということが言われています。(ニッポニカより)

これ以上のことは、どうか専門書をお探しの上ご参照下さい。

さて、本句ですが、

露時雨の音が聞こえてくる。
猿蓑のことを考えると、
遠き昔の思いを感じるなあ。

くらいの意味でしょうか。この「おもひ」が、どんな思いなのかやや判然としないですが、芭蕉をはじめとして蕉門の人たちが新境地を開かんとした心意気のことを示したかったのではないでしょうか。波郷もまたその心意気に学ばんとしたのでしょう。猿蓑の巻頭句「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の時雨と呼応して、本句は露時雨を季語として使っており、それがとても効果的です。

波郷は、年譜によれば、1943年(昭和18年)に30歳になった年から、「猿蓑」をテキストとして古典の研究を始めたそうです。古典への回帰の傾向は、波郷ばかりではなかったようです。一種、新興俳句への反動とも言えますし、時局の要請するところ(日本古来の伝統こそ大事)であったのかもしれません。

兄妹の小(さ)干す衣や虫の宿

季語は、「虫(むし)」で、三秋。

「虫の宿」という季語はないようです。「宿」というのですから、旅先で詠んだ句かもしれません。波郷と妹真佐子がともに旅行をしたという記述は年譜等にはありません。しかし、考えられないことではないでしょう。

兄妹で旅をした宿で
二人の衣を風にさらしている。
虫が澄んだ音色で鳴いている。

くらいの句意。兄妹二人の間の感情のゆきちがいなどもあるなか、兄妹の絆を宿に干した衣で表現したのでしょう。何とも言えず心に沁みる句であると思います。

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剪定に躊躇ひのあり猫歩む  森器

梅の枝に蕾の固し鋸を見る

空の愛大地の愛に八重椿

春夕や飲食店に灯の黄色

 

春園の鉢数へをり月高し


早春の薄暮に月の光あり人は変はりてゆくものなれど

ベルリオーズの魔女の奇声を聴く夜なり小澤征爾の死を悼みつつ

夜も更けて命の重さ感じをり茶毛の野猫はどこを彷徨ふ


。。。。。。。。。。

指揮者の小澤征爾氏がこの世を去りました。
彼のような日本人指揮者は、もう出てこないだろうと思います。

いろいろなシーンが頭を過ります(テレビ画面やYouTubeを通してですが)。

ドヴォルザーク演奏後、チェリスト、ロストロポーヴィチと熱い抱擁を交わしたこと、
日本人で初めて、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを指揮したこと、
癌から復帰して、ときどき休憩をとりながらも、ベートヴェンの第4番交響曲を指揮したときのことなど、感動する演奏がいくつもありました。

私が彼の演奏を初めて聴いたのは、中学生のときで、ベルリオーズの幻想交響曲でした。
この曲は、彼の十八番(おはこ)の一つと言ってよい曲だと思います。
中学生の私は、FM放送の演奏をテープに録音しました。すでにそのときボストン交響楽団の音楽監督だったと記憶しています。そして、そのテープを擦り切れるまで、何度も何度も聴きました。懐かしい思い出です。(1978年の日本公演(ボストン響)での幻想交響曲の名演をYouTubeで聴くことができます)

大学時代に彼の第九演奏をライブで聴いたこともありますが、やはり私の印象はあの幻想交響曲です。

今、この文章を書きながら、YouTubeの小澤征爾指揮、トロント交響楽団の幻想交響曲を聴いています。1966年の録音で、若々しい小澤征爾氏の写真がスマホに映し出されています。名演奏だと思います。

世界中の演奏家や聴衆に愛される指揮者でした。ご冥福をお祈りします。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。