□ 石田波郷第二句集『風切』Ⅱ(39)

(「秋」より)

朝寒の市電兵馬と別れたり

季語は、「朝寒(あささむ)」で、晩秋。

まずは、『波郷百句』の波郷自解を掲載します。

昭和十五年、駒場から毎日市電で神田へ出かける途中、これは赤坂見附あたりの所見。すでに軍隊の行進は血腥い戦場とつながつて国民を威圧した。

この自解で、本句の意味は尽きているように思えます。『波郷百句』は昭和22年に発刊されているので、この叙述がそのまま昭和15年の波郷の偽らざる心情とは限りません。ただ、当時の軍の行動について、波郷の気持ちが単純ではなかったということは言えそうです。

文末に切字「たり」が用いられています。「たり」は本来完了の助動詞ですが、助動詞「つ」「ぬ」に比べて、存続・継続の意味が中心となるとされています(「たり」がもともと「てあり」が変化して成立したからだと言われています)。本句では、「たり」の強い響きとともに、「たり」の持っている臨場感が効果的で、市電と兵馬の動きがありありと目に浮かびます。

晩秋の寒い朝、私が乗った市電は、
途中兵馬と別れていったのだった。

霧の夜々同じ言葉の別れかな

季語は、「霧(きり)」、あるいはその傍題「夜霧(よぎり)」で、三秋。

「同じ言葉の別れ」という言葉から推測できることは、何度もこの別れを繰り返しているということ。ここは、出征する若者らと盃を交わした後の送別の言葉と解してみようと思います。あえてどんな送別の言葉だったかは読者のご想像にお任せしたいと思いますが、その繰り返す言葉を波郷が好んでいたようには感じられません。「霧の夜々」という語が沈鬱な気分を醸し出すからでしょう。

霧の夜を重ねて、
同じ言葉の別れをしたのだなあ。

「かな」で切れていますが、この「かな」には複雑な感情が載せられているに違いありません。

 

本句を男女間の別れと解するのが実は自然かもしれません。だとすると、私の鑑賞などかえって邪魔になるでしょう。

霧の夜々幾日黙す兄妹ぞ

季語は、「霧(きり)」、あるいはその傍題「夜霧(よぎり)」で、三秋。

前句と隣合せにはなっていないけれども、二句をはさんだ次の句です。上五が同じ「霧の夜々」です。

この「妹」は、駒場アパートに同居していた妹の真佐子さんでしょう。

霧の夜を重ねて、
幾日も黙りこくっている
兄と妹だったなあ。

幾日も黙り合っていたのは、喧嘩をしたのでしょうか? それとも、もうお互いの生活に干渉しなくなったからなのでしょうか? いずれにしろこの兄と妹にちょっとした心のすれ違いが生じ始めたことは間違いないようです。

妹、真佐子さんは、1938年(昭和13年)7月に上京後、駒場アパートにおいて兄波郷と同居し、1941年(昭和16年)の12月、太平洋戦争の勃発の月に松山に帰郷しています。


。。。。。。。。。。

春雪を待つや紅茶を二杯ほど  森器

ランチすむ細雨音なく春雪へ

関東の春雪白しなほ白し

春の雪鵯は気高く鳴きにけり

風吹けば春雪とゐる地の果に

赤き花隠さむとせり春の雪

子供らの声消ゆ昏れし春の雪

大根を煮て足らむとす牡丹雪

牡丹雪病なき日のいつか来て

日の没ちて春雪さらに濃くなりぬ


。。。。。。。。。。

 

 

関東に雪。

雨が雪へと変わったのは、午後1時過ぎ。

ごま油と醤油の匂いがキッチンに満ちてゆくころ、雪は本格的な牡丹雪になっていきました。

外に出てゆく勇気はなく、もっぱら窓を開けながら見る雪見。

日が没すると、街灯の光に照らされた雪が幻想的な絵をつくりました。

午後8時過ぎ、雪は降りやまず、それどころか春雷さえ聞こえてきます。

気がつくと積雪は5センチを超えたようでした。大雪警報が出ているのに気がついて、少し慌てます。

思わず外に出ました。

積雪に触れてみました。ほんの少しの間。

からだがしんと冷えました。

子供の頃の記憶が甦りました。ただ、違うのは外へ出たことを叱る母がいないことです。

軽い頭痛。

すぐ居間に戻るとファンヒーターの前で暖をとりました。

午後9時過ぎ。外で雪掻きの音がします。

強い春雷がありました。窓が振動します。

軽い耳鳴り。

その耳鳴りが止むと私ははっとしました。

私の過去はいま再び夢のようにま過ぎていったのだと。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。