もうずいぶんと前に読み終えていたのに

なかなか書けずにいた「茶の本/岡倉天心」。

このタイミングで読んでおかなくちゃいけなかったな、

という本だった。


今日はゆっくり時間があるのでつらつら書いていこうと思います。

(でも、よしもと新喜劇始まるまでに書き終わるといいなぁ・・)


いろんなものの原点というか・・根っこの部分がぎっしりつまっていた。


それは清潔をきびしく説くという点では「衛生学」。

複雑なぜいたくというよりもむしろ単純のうちに慰安を教えるという点では「経済学」。

宇宙に対するわたしたちの比例感を定義するという点では「精神幾何学」


そしてわたしは天心がこの本を書いた理由を考えれば

これは「平和学」にもなりうるのではないか、と思っている。


茶の本は日本人に向けて書かれた本ではなく

実は1903年(明治39年)にThe BOOK of Teaというタイトルで

英語でニューヨークで出版されたもの。


著書の中で彼はこんな風に語っている。

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、

他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。

一般の西洋人は茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている

千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。

西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。

しかるに満洲の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。

近ごろ武士道について盛んに論評されてきた。

しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。」(本文引用)


いつか武士道ではなく、茶道の思想に欧米諸国が理解を示し、

そこにこそ理想を求める時代が来ることを望んで彼はこの本を書いた。

世界がそれを理解するとき、戦争はなくなるはずだ、と。


高校時代、英語の先生が

「外に出るとまだまだ日本のことを誤解している人たちがたくさんいます。

その人たちに『それは勘違いなんですよ』というのを伝えていくことが

あなたたちの役目です」と言っていたけれど、

彼は明治の時代でそれをやった人であったと思う。

ただ、それをするためには自分の国のことを知らなくてはならない。

当時、海外向けに出されたこの本が同時に日本に向けても書かれていたなら

また何か違っていたかもしれない。


(余談ですが、グローバル化して国境がなくなってくると

争いの原因は「宗教」になってくる。そうなるといろんな宗教が混在して

八百万の神という考えのある日本の思想が大切になる時代がくるという話を聞いたことがありました。

時代が変わって今は別の事象で同じことが起き始めているのかもしれないですね。)


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(お花のお稽古でクリスマス花つくりました♪)

あ、よしもと新喜劇が始ってしまった・・。

この調子だと書き終わりそうにないので、ここからは印象に残った部分をピックアップ。


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「われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行う。

おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。

他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、

おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。


UAの新曲、2008もこれと同じことを歌っているような気がしてる。

「あなたの鏡に映ったわたしをもう許そう」というフレーズがあるのだけど、

これに関してUAはあるインタビューで

「結局、自分を許せないから人も許せないというか、

あなたを見るのではなく、あなたの中にある自分が許せない。

自分が持っている弱さと同じものがあなたにあるから、

ものすごく見たくなくて、自分もそこを信じたくないから相手に言ってしまう。

でももうそんな場合じゃない」と言っていた。


2008、深いです。

カップリングのアスパラガスという曲が大好きです。
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あぁ、だめだ。また長くなってます(笑)

ここからはサクサクっといきましょー。


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浮世芝居の成功の秘訣は

「物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ること」

自分の役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければいけない。

個人を考えるために全体を考えることを忘れてはいけない。

このことを老子は「虚」と呼んだ。

「虚」はすべてのものを含有するから万能である。

虚においてのみ運動が可能になる。

おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、

すべての立場を自由に行動することができるようになるだろう。

全体は常に部分を支配することができる。」


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以前このブログでもいい絵というのは想像の幅を残す絵

ということを描いたけれど、そんな話も載っていた。

「芸術においても、何物かを表さずにおくところに、

見る者はその考えを完成する機会を与えられる。」

大傑作というのは人の心を強くひきつけて、

ついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。


彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、

完全を求める手続きに重きをおいた。

真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。


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「琴ならし」という道教徒の物語がある。

どんな琴の名手も上手くならせなかった琴を

伯牙という名手がやっとならすことができた。

どうやったのかと聞かれた伯牙はこう答えた。

「他の人たちは自分のことばかり歌ったから失敗した。

自分は琴に楽想を選ぶことを任せて

琴が伯牙なのか伯牙がことなのかわからないくらいでした」と。


現代人は技術に没頭して、おのれの域を脱することはまれである。

竜門の琴をなんのかいもなくかき鳴らそうとした楽人のように

ただおのれを歌うのみであるから、その作品は

科学に近かろうかれども、人情を離れること遠いのである。


日本の古い諺に「見えはる男には惚れられぬ」というのがある。

そういう男の心には愛を注いで満たすべきすきまがないからである。

芸術においてもこれと等しく、虚栄は芸術家公衆いずれにおいても

同情心を害することはなはだしいものである。


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宗教においては未来がわれらの背後にある。

芸術においては現在が永遠である。


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まだ未完成ですが、茶わんの絵。

今こんな感じで部屋にあります。