意味 | 最後の大学生活が鬱病に

意味

生きる意味とか必要性が分からないのにも関わらず

生きているって

実はかなり気持ちが悪い行為だと思う。



でもほとんどの人はそれに気付かないでいることができる。


気付かないことも能力の1つなのかな。




小学生の時、中学受験のために塾に行かされてたけど


受験をする意味や必要性が分からなくて

結局、塾をやめた。



そんな風に、生きることをやめれたら楽だのに。




どんなに楽しくて嬉しくて幸せな毎日を手にすることが出来ても


痛みも恐怖もなく死ぬことが出来る薬があるならば


僕は、ためらいもせずにその幸せな毎日を捨てて

死を選ぶ自信がある。


生きる意味が分からない限りね。





もしも

世間的に羨まれるようなエリートな人間になることが


人生の目標であり、生きる意味であるならば


…そのことを心から信じて疑わないのならば




きっと、小学生の頃に必死に塾に通って

開成だとか麻布を目指して

勉強することは正しいことだったのかもしれない。



しかしながら、


自分にとっては

エリートになることも 金持ちになることも

パイロットになることも 学校の先生になることも

好きな人と結婚することも

幸せな毎日を過ごすことも



全てが“生きる意味”として十分じゃないんだよ。

そんなことのために生きる気力がおきないんだよ。



「世の中にはもっと 不幸で可哀そうな人たちがいる。」

「それでも必死で生きようと頑張っている人がいる。」

「だから、お前の“生きる意味が分からない”は不埒である」


そう思う人がいてもさ、

僕から見れば滑稽。


不幸なのに可哀そうなのに、なぜ生きようとするのか。

そう見えるね。



自分にとって

人間は生まれてきてしまったから仕方なく生きている生き物

だけど

他の人にとっては

生きる意味があって生きている生き物

なのかもしれないし


それはどうだって良いこと。 

考え方、価値観の違いなだけだし。



だから、僕が

いくら死にたい、死にたくない と言っても

それに関して良いも悪いも正しいも正しくないもない。

逆もまた然り。



問題は、自分個人の問題のはずなのに


その影響が周囲にまで及ぶこと。



ああ面倒くさい。






こんなこと考えていると

精神異常者とか鬱病者とか言われるのだろうけど。

それすらどうだって良いことなのになぁ。





一体 僕にどうしろと言うのだろう。

周りが期待するほどの人間じゃないのに。

周りに合わせてきたつけなのだろうか。



ああ 面倒くさい