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人生を変える英語学習 教育×英語×お仕事

子育て中のやり直し英語でTOEIC講師、実務翻訳者という自分の夢を叶えながら子供たちの英語教育リテラシー向上も果たしました。
「勉強しなさい」と言わない子育てで、長男は東大合格、長女が国立大医学部に合格しました。
教育コーチングを通して学習の自立をサポート

現在、国会ではこんなことが議論されているようです。

 

 

驚いたのは、いじめ防止対策推進法なるものができてからも、いじめ相談窓口は電話で9:00~17:00という場所がいまだにあり、そこに何名もの相談員が配置されていることです。

 

子供達が、学校に行っている時間に「いじめ相談」を「電話」でするでしょうか?

 

不登校になった子なら考えられますが、多くの子供がいじめられながらも学校の通っている現状を考えると、ほとんど相談窓口の意味がないように思います。

 

そこで、検討されているのが、今や子供達のコミュニケーションツールとなっているSNSを窓口にしたらどうかというものです。

 

確かの子供の声を拾うという意味では、現状の電話相談窓口よりはましだと思えます。

 

しかし、私が考えるに相談窓口を設けて、子供の声を拾っても、その後どういうシステムでいじめを解決するのかというところまで制度設計をしないと、これもほとんど無意味になるかと思います。

 

私どもいじめから子供を守ろうネットワークの仲間で、5年前までいじめ相談BBSを設けネットでいじめ相談をしてきたものがいます。ただ、結局は、いじめ被害者が勇気を出して、親に伝え、親が動かないとなかなか解決できないというのが現状です。

 

子供達の声をきいて、自殺を思いとどまらせたいのなら「いじめを解決」しなくてはいけないのです。解決できなくても、その場にいかなくてすむような「転校」というところまで行かなくては子供達は救われないのです。果たして、そこまで、今の相談窓口が機能しているかというと、そうではないと言わざるを得ません。

 

私のところに来るいじめ相談は、「公的機関」を何度も何度もたらいまわしにされている相談が多いのですが、相談窓口で言われることは、結局「校長先生と話し合ってください」「学校と話し合ってください」ということなのです。

 

学校に相談をして、解決にいたらないから窓口にきているにもかかわらず・・・です。

 

私が考えるに、今、必要なのは「いじめ相談窓口」ではなく、「いじめ通報窓口」です。そして、そこに通報があったら、学校、警察、教育委員会は真摯に解決に向けて努力をし、隠ぺいなどせずにしっかりと対処をすることです。対処しなかった場合は、法律違反できちんと処罰をするべきだと思います。

 

最近あった、相談事例では、とある地区〈守秘義務があるので個別具体名は避けます。〉で、教師によるいじめがあり子供が不登校になった⇒校長に相談した⇒校長から「担任に聞いてもそんな事実はないといっていますから、いじめはありません。」 ※子供不登校⇒教育委員会に伝えても「学校とよく話し合ってください」 警察に行ったら、「○○地区は多いんだよね~そういう話。でも、実際の被害がないとあれだから、学校とよく話し合ってください」

そこで、「もう転校をした方がいいだろうか」と父親が相談したところ「○○地区は、どこに行っても同じだよ。」と言われたそうです。そして、なぜか学校側しか知りえない家庭の個別具体的な事情がネットでさらされているという現状があります。

 

こういう事例にあうにつけ、いじめ防止対策推進法には、いじめ放置、また調査義務違反等には罰則をつけるべきだと思うのです。

この、二宮尊徳に学ぶのブログを書き始めたときに、一番感銘を受けたのが「一円融合」だとご紹介しました。

 

今回は、もう少し背景にも踏み込んでご紹介したいと思います。

 

桜町領の仕法では、さまざまな対立に悩まされた金次郎〈尊徳の幼名〉でした。上役の豊田正作は、守旧派の名主と組んで、徹底的に金次郎の邪魔をしました。しかも、村人のなかにも、金次郎の方針に反抗するものがいたのです。

 

さすがの金次郎も怒りで不動心が揺らぎます。

 

そんな自分の心と対決するために21日間の断食修行に入ります。

 

そこで、金次郎は一円融合の境地を垣間見るのです。それは、円を宇宙の実相とみたて、善も悪も混然として、この中にすべてが含まれているとする見方です。「善人をただ善人と見ず、悪人をただ悪人と水、悪人にも長所があり、善人にも短所はある。原因と結果が循環しながら、円の中で融合している」とみるのです。

 

金次郎は、自らの裁き心が、彼らの妨害を助長されていることを知り、善は善、悪は悪としながらも、人を裁かず、相手の徳をみていこうと心に決めます。

 

そして裁く心が消えた時、世界は一変してしまうのです。断食修行を終えた金次郎を迎えたのは、仕法の継続を求める桜町の農民でした。また、豊田正作は、金次郎の修行中に異動させられ、いなくあります。奇跡的に本格的な仕法環境が整い、復興事業は加速していったのです。

 

思いが全てーまず、自らの思いを変えるーすべてを成し遂げる原点であると思います。

二宮尊徳は、もともとは農民でしたが、その考え方や生家再興の能力をかわれて小田原藩士となります。(つまり、武士になったわけですね。)

 

そして、3村の復興の命をおび、見事復興を果たします。

 

二宮尊徳の行った財政再建を報徳仕法と言います。

報徳というのは、、天、地、人の徳に報いるという意味、仕法というのは物事を行う方法という意味です。

 

まず、天から与えられ、地に育まれ、人と支えあっていることに感謝し、誠意を持って生きること、これが基本姿勢なのです。この誠実さは、行動で見た場合【勤労】という形に現れます。財政再建においては、労をいとわず働くことがなければ、本当の豊かさは得られないのです。

 

財政破たんの多くは、分に応じた暮らしができないということにあります。

収入以上の支出を繰り返していたら、借金だらけになるのはあたりまえです。

「入るを図って出ずるを制す」というのが健全な生活のための道理です。(分度)。

 

しかし、入ったお金をすべて使っていたら、それは収入=支出となり、生活するだけで精いっぱいというレベルです。発展を考えるならば、入ったお金の一部は、将来のために回す必要があります。投資と考えてもよいでしょう。

 

こうして考えてみると、二宮尊徳の報徳仕法は、決して難しいものではありません。

難しかったのは、無駄遣いをしていた人たちが無駄遣いをやめるという自己変革ができるか否かの1点だったといってもいいかもしれません。

 

家計も、政府も経済の原理はそれほど変わらないと思います。

 

二宮尊徳は、資本主義精神を体現した偉人である―と言われます。

資本主義とは、お金がが社会を回りながら利益を生んで、それが回収される社会システムのことです。

 

金次郎の菜種づくり

-養子となった金次郎は、伯父から「学問などは武士の道楽だ。ただでさえ、農民は作ったコメの半分を年貢に撮られて苦しいのに、一文にもならないことに油(※夜、本を読むための灯りに油を使った)を無駄遣いしている、今後はそんなことのために油を使わせないと言われました。それでも、家の復興や立派な人間になるためには学問は大事だと思って、自分で荒地に菜種を植えて油を作った話は有名です。

 

捨て苗のエピソード

-捨てられていた苗を荒地に植えて一俵の米を収穫しました。当時、荒地からのコメは、荒地が田になるまでは年貢にはならなかったため、その米を蓄えて、新しい開墾をし、少しずつ田を増やそうとした話は有名です。

 

のときに語られる「小を積みて大と為す」(積小為大)という考え方は、まさに資本主義の精神に通じると言われています。

 

例えば、生家再興にあたり奉公や日雇いの仕事で現金を作ります。その収入で離散前に手放して荒れはてていた土地を安く買い戻します。荒地を開墾した場合、二、三年は年貢を納めなくていいのです。そこれ荒地からの収穫を蓄えにまわして開墾を進め、年貢を払えるような農地にすると、それを小作人に渡します。すると自分には小作米が入ります。

そこで次の土地を新たに買戻し、また開墾していきます。こうして失った土地を次々に買い戻していったのです。田が増えれば、小作米もどんどん増えます。

 

しかし、多くの人は楽をして一発逆転の利益を考えたり、何も考えずに見当違いな努力を重ねていたり、努力もしないでどこかに美味しい話がないかを探しています。金次郎は自らの実践を通して、自己責任、自助努力の精神を人々に教えていきました。

初めて、信用組合というものができたのは、ドイツだと言われています。

ところが、それよりも40年以上も前に二宮尊徳は「五常講」と謂される信用組合と同じ機能を持つ組織をつくっていました。

 

五常講とは、経済と道徳を一致させた金次郎独自のお金の貸し借り制度です。銀行と違う点はここに、儒教の基本精神<五常>を一体化させたことです。

 

具体的には、

 

仁・・・自分の欲を満たすための貸し借りではなく、人を幸福にするという慈愛に基づく

義・・・約束事は守るという責任感を持って、借りたお金は間違いなく返済する

礼・・・みんなのお金を貸していただくことに対して、感謝の心で礼節を尽くす

智・・・借りたお金を機嫌までに返すために、知恵と工夫をもってやりくりする

信・・・お互いの信頼の上にな値立つものなので信頼を損なわないように努める

 

というものです。

 

はじめは奉公仲間のお互いの助け合い体制で始められた者が、規模がだんだんと拡大していき、莫大なお金をうごかすようになっていったのです。

 

「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」

 

これは二宮尊徳の言葉であるとされていますが、経済と道徳の一致こそ、彼が障害をかけて目指したものでした。

 

日本の資本主義の祖と言われている二宮尊徳に学ぶ点はたくさんあると思います。

 

私も、教育事業を「顧客の幸福のため」と位置付けて頑張ってまいりたいと思います。