ご神水繋ぎ一考(スピリチュアルポリシー) | ありのままの運勢波動バランスをUPする⤴

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フェイスブックばかりアップしていたら、久しぶりにブログを開いてみたら半年ぶりだった。

この半年は本当にいろいろあって息つく暇もなかったのだけれど、少し一段落したから気になっていることを再確認の意味も込めて書いてみたいと思う。

かなり長いのでご関心のない方はスルーでどうぞ。

 

2013年に頭の中がお水でいっぱいになってからのご神水繋ぎが続いている。

サイン、メッセージのようなものを受け取るたびに、次々といろんな事象が繋がりながら湧き水の場所などにも導かれた。

2015年から始まっている龍宮龍神統合水にいたっては多くの人も関わりながら合わせたご神水は250カ所以上にも及ぶ。

 

琉球龍神を統べる龍王らしき存在からは、龍の想い、天の想いである水をどんどん広めていけよというメッセージをキャッチしたのでご希望の方にはお分けしている。

ただそれは、神、人、自然の無垢なる意識を底上げし、ズレを矯正し大元根源のリズムに足並みを揃えていくことと受け止めているから、この意識に根差して聖域などに繋いで情報を更新したり、個人使用にとどめて商用には利用しないことが前提であるが。

水や祈りによって神仏人自然が一つになり、おのずと情報が更新され、その場が存在とともに宇宙の意志のもとに調整される。水は最新の情報を運ぶためのエネルギーキーパーなのだ。

 

なぜお水繋ぎをしているの?とよく聞かれるが、これをしてどんな効果があるとか、なんの得があるとか、どんな結果があるのかということは何一つわからないし、求めてもいない。

そんなことはどうでもいいことだ。

水というのは命に神に繋がる最も有効な物質のひとつであり、水を通じて神々の情報交換がなされればそれでいい。ただそう思ってサインの訪れるままに続けているだけなのである。

だからこれは私の本業とはまったく関わりはなく人間的利害もまったくない。

「あなたのしていることは神事だよ」と教えてくれた方もあったが、神事であればなおのこと、ご利益商売に利用してはならないだろう。

 

自分はお水繋ぎ、ご神事についてこのように受け止めるのだが、時々、ご神事と絡めたご神水を販売する人もたまに見かける。これはどういう了見なのだろう。

場の調整のために使う水であるのに、これに個人的な御利益を謳ったり自分の生活の糧が目的の販売に利用するのはどうなのか。

飲むためのミネラルウォーターはその目的で市販されてるし、中にはご神水と銘打っての商品もあるが、これらはあくまでも飲料水としてである。

そういう目的でないご神事そのものにまで値をつけて販売するというのはあまりに節操がないとは言えないのか。

 

水に限らず、正式な神職にあるわけでもない生半可な霊能者が、憑依現象を「神事」と臆面もなく言い放ち、神事に参加するとご利益があると謳って参加者を募るご神事お祈りツアーをビジネスとして企画する方もいるようだ。

何か所かの聖地の水を販売したり、聖地でのヒーリングワークを神事と称して遠隔セッション料をとるというのは、本来あるべき神事とはまったく違う意味となり誤解を招く行為ではないのか。

単なるヒーリングエネルギーワークに神事という言葉をつけることで差別化して神秘性を高め、格段の効果があるかのように謳う。集客のために神事を利用しているだけだ。

このような神事と絡めたご利益商法はもはや悪徳霊感商法と大差ない。

こういうことを平気でやる人は、膨大な量の読みかじり聞きかじりの情報の断片を繋ぎ合わせて都合のいいように解釈しすべてを商材にしていくタイプであり、何もかもを利益にしていこうという思考そのものが卑しく薄っぺらである。

よく言えば商魂逞しいとでもいうのか。

 

本当に神職にある人や真摯に神に向き合う人は、依頼された拝みやワークセッション以外の本当の神事については誰に報酬を求めることなくただただ純粋に神に向かうだけだ。依頼された拝みにしても法外な金品はとらない。

少なくとも、沖縄宮古島などの中でもまともに神に仕える司さんは、生業はしっかりと持った上でご神事は無償で行う。拝みを業いとするカンカカリャ、ユタさんも同様である。

 

近頃スピリチュアルとか見えない世界やサイキックな能力が必要以上にもてはやされ、憧れにも似た目で見られていることに危惧を感じる。

霊的能力が無い人はいないのだが、生まれついてのとびぬけた能力者や自分の利得満足のためにどん欲にサイキック能力を求める人などには、見えざる世界のあらゆる層の存在がコンタクトしてくる。

それはインターネットの情報のカオスと同じような世界で、そこから何をキャッチするかはその人次第である。

だからそこには完全に正しいということも間違いということもないのだが、自分がキャッチした情報(メッセージ、啓示)が完全に正しい確実無二のものとして信じ切ることが怖いのだ。

 

欲から求めた祈りには欲を食い物にする霊界が呼応する。そういう存在は往々にして代償を求めることが多い。

 

最近は龍を使うとか解放するとか封印を解くとか流行っているようだが、そういう使命感や正義感を満足させようとして繋がる存在も欲がらみだ。

 

正義で動く=正当性=愛は消え我欲が勝る=純粋無私ではない。

 

神を名乗る霊が憑依し幻覚幻聴メッセージを大げさに表現する。

いずれもどこかで聞いたようなさもありげな内容であり、こうしなさい、ああしなさいと動かそうとする。

 

こうした、いかにも自分が特別であるようなこと、神秘性を醸し出す言葉を多用するのは、人を引き付けたい、従わせたいと願う心があるからだ。

その心に付け込んで降りてくるのは、龍や神を語って人の欲を食い物にする動物や宗教霊。

これらに共通することは、大げさな振る舞い、パフォーマンス、地球を助けて、神を助けてと懇願、大きな変化、願いを叶える、条件づける、祀ってほしい、あがめてほしい、祈ってほしい、忘れないでほしいなど、ああしろこうしろと要求する。そもそも真の神たる意識体なら、人にお願いしたり感情的な表現をしたり過剰に命令したり脅したりするようなことはない。

 

神と契約し人のために神と繋がり働くことを促される現象のことを宮古島ではカンダーリというが、そうなったときには降りてきた神を頭から信じるのではなく、多方面から照合し確かめていく必要がある。

そのために頼む人を審神者(さにわ)というが、急に神がかり的になったり、気が狂ったようになることが単なる憑依なのかカンダーリなのかを判断するのは幾重にも審神者するなど、本当に慎重に見極めていかなくてはならない。

 

スピリチュアルがもてはやされる中にあって、単なる憑依体質がなんでもかんでもありがたい素晴らしい能力者とされるなら、その体を利用して欲を食い尽くそうとする憑依霊の思うつぼとなる。

 

そうした存在は欲を満たした後には必ず代償を要求する。その代償は払いきれるものならいいが、時に一つの命では払いきれないことに及ぶこともある。

 

まともな霊能者、カンカカリャ、司は、その点をよくわきまえている。

一番怖いのは傲慢と必要以上の我欲。

龍、神は人の欲によってサポートするものではないことを知り尽くしているから、彼らは実に謙虚なのだ。

これとは逆に、セッション生業と神事にラインを引かず、むしろ神事をビジネスにするような人とは関わりたくないものである。

 

私自身、ヒーリングカウンセリングということをしていると、いやでもスピリチュアル、神事といった世界に触れていくのだが、それだからこそ、お仕事としてのエネルギーワークとご神事はしっかりと分けていかなければと思う。

 

神、スピリチュアルといっても非常に広範囲にして曖昧、また、人智の及ばない底深さのある世界なだけに、すべてを十羽一からげにはできないし、してはならない。

 

何でもそうだが、人が生きていくうえで保たなければならないライン、尊重する領域というものがある。分別秩序があってこそ世界はまぁるく収まる。

 

ご神事、憑依、カンダーリ、御嶽の意味もわからず、見境なく何でもかんでもエネルギーワークやヒーリングセッションとして扱うことがスピリチュアルだとは思わないでいただきたいし、ご神事とワークの線引きは絶対にわきまえていきたいとあらためて思うこの頃なわけである。

 

それにしても、湧き水に触れるたび思うのだけど、このミネラルいっぱいの生きた水に水道局は消毒カルキを大量に入れてミネラルを消して、それを浄水器でカルキ抜きしてミネラルを入れ直して飲んでいるのだなと思うと、人って本当に不思議なことをしているよなぁと。

 

そして、どこそこの神のエネルギーの入ったありがたーい水と言われて10ccかそこらの水を高ーいお金で買う人もいたりするんだなー。

 

人こそがマカ不思議な存在だ。                        合掌