(∪^ω^)わんわん!(∪^ω^)わんわん!

これはいいOPでつね^^誰もが納得!




( ^ω^)何言ってるかわかんねー・・・一期の方がはるかにいいよ・・・
という評価をよく拝見しますが、慣れてくると中毒性のある曲ですw
僕の中でも今ではもう良OPへと変貌しております。




このOPをクソとか言ってる奴ってなんなの?神OPだろwww
一回聞いただけではこの曲を計り知ることはできません、それほど深い曲だと僕は思うのです。
聞くたびに新鮮さがあって、新たな発見を得ることができると同時に更なる高みへと昇華していく・・・それが迷い猫のOPではないだろうか?

はっぴぃwww にゅうwwwにゃあwww

( ^ω^)・・・・


クソすぎワロタwww

 
そもそも僕は、攻殻SACの影響でライ麦を読んだので、
「僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えたんだ。」

は何時くるのかと楽しみにしてた。

でも「僕が考えていたのは、聾唖者の振りをしてみようということだった」
という文章が出てきて、そこではじめて借りる訳を間違えたことに気が付いた
すごくどうでもいいことに聞こえるかもしれないけど、あの言い回しがなんか好きだったんだ


順序が前後してしまったけど今回の大雑把な感想(再読、何回目かは忘れた)

100ページくらいまで:
これはムチャクチャ面白い、サリンジャーってここまで面白かったっけ? とか思う。
短篇の名手、長編は普通くらいと思ってたけど、長編も相当面白いねこれは。
一方で、面白さの何割かは訳者野崎の功績もあるな、と原文を思い出しながら思う。

100-200くらいまで
つまらなくなってきた。ホールデンの青くささが鼻につく。ちょっと耐え難い。

終盤からラスト
やっぱりこれは面白いね。かな~り面白い。
以前から思ってて、いろんな方にも同様の意見を聞いていたけれど、
サリンジャーはかなり念入りに細部や仕掛けを作りこむタイプの作家だな、と思う。
系譜で言えば、ジョイスやナボコフと同じタイプ。過去の課題では『どーなつ』が近い。


・結構重要なポイントで、野崎が重々分かってて、春樹がたぶん読めてないことに、

ホールデン=嘘つき

ってことがあると思う。これはさっき挙げた研究者の竹内もちょっと認識が甘いかな。
ホールデン自身がたびたび自分で言っているように、彼は(たぶん病的な)嘘つきです。
彼の語りにはたびたび「うそ」が紛れ込みます。
つまり読み手は、彼が語ったとおりの物語の裏に、何が隠されてるか(隠されてる時には)
さぐりながら読まなければならないわけで。これがこの小説の一つの醍醐味だと思うんだけど。

専門的に言えば「信頼できない語り手(アンリライアブル・ナレーター)」というのですね。


・「オマンコシヨウ」って訳は、その当時のファッキューのニュアンスなの?
それとも誤訳?


>>ファック・ユーを直訳しただけだね。
原義で「オマンコシヨウ」って文字通りの意味で使われることはほぼ無いのだけれど、
これを文字通りの意味(「オマンコシヨウ」)で訳しておかないと、
ホールデンが何でしつこく消そうとしたのか、が読者に伝わらないからね。

野崎訳の当時は利根川先生もまだファック・ユーなどとおっしゃってはおられず、
日本人にはそのまま「ファック・ユー」と訳しても普通の意味も、文字通りの意味も伝わらないし、
「クソったれ」とかにしたらホールデンのしつこい行為がわけわかんなくなると思った妥協の産物じゃないかな?


・ずっと気になってたんだがあの独特な口調は何なんですかね?
原書読んでるチンチンあたりに聞きたいんだけど、あれはやっぱり訳者のセンス?


>もとの英文が、かなり若者言葉、ジャーゴンだらけなんだよ。
あくまで「1950年くらいのアメリカの若者言葉」らしいんだけど。
その雰囲気を翻訳しようとして、野崎訳は「1980年代の日本の若者言葉」に移し変えたんじゃないかな。


・ホールデンのお気に入りの赤帽子の「つばの向きを変える」っていう描写は
気持ちの変化を示してるわけ?


>竹内康浩という人がなかなかいいライ麦論を書いてます。
『「ライ麦畑でつかまえて」についてもう何も言いたくない』
俺はこの人の授業受けたことが実はあるんだけど、なかなか面白かった。
本の内容についても、大筋で同意。ただし論証は、元が学部卒論、と断ってあるけど、卒論レベル。
ご立派なものではないです。かなりアラだらけ。

この中で「つばの向きを変える」ことについて、野球の捕手、キャッチャーの帽子のかぶり方だと説明されてます。
これは俺も全面的に同意。
キャッチャーはマスクをかぶる時、つばが邪魔になるから後ろ向きにかぶるんだよね。
今はつばなしのヘルメットとかがあるけど。


>>野球かなるほどね
捕まえて♪とキャッチャーをかけてるのかピピン!


>>>そう。この小説のホールデンの理想像の一つに「ライ麦畑のキャッチャー」になる、があるけれど、
そのキャッチャーは、第一にはアリーが野球をしてたことから考えても、野球のキャッチャーのニュアンスです。
(アメフトが無くも無いかもしれない)

ちなみに帽子が赤いのは、もちろん、アリーが赤毛だからです。


>>>>あのかぶり方=キャッチャーというのは多少単純すぎる気もしないではない
けど、そうなのかもね。サリンジャーと野球ってどういう関係だったんだろう。
もし何かあるんなら、作中にヘミングウェイへの言及があるのもうなずけるかもしれない


>>>>>サリンジャー自身と野球の関係はちょっとわかんないな。

終盤でフィービーに「ライ麦畑のキャッチャー」になりたいと語る時、
当然念頭にあるのは若くして死んだ弟アリーで、アリーのグラブから連想されるように
このキャッチャーは野球のキャッチャーから連想されたものだというのは間違ってないと思うよ。

その役割は、他人(大雑把に言って子供)を救うことなんだけれど、
この時ホールデンが誰よりも救いたい「子供」というのは弟アリーなわけだよね。けれど彼はもう二度と救うこともできない。
そのアリーの赤毛になぞらえて赤い帽子をかぶるわけだし、
この逆向きは確かにキャッチャーを示している、と言っていいんじゃないかな。

なお、竹内センセはここから発展させて、ホールデンはアリーと入れ替わりをしている、という論まで行っている。
アリーが死んだ時、ホールデンはガラスを殴り壊して、二度とまともにこぶしが握れないほど右手を壊すんだけど、
それは左利きのアリーになるためだとか。

>>>>>>義務感からアリーになろうとしているのか?
人格者として優れたアリーへの憧れからなのか?


>>竹内センセの読みではなくて、俺の読みになってしまうけれど、
この小説はぶっちゃけると、

自殺に失敗したホールデンが精神病院にぶち込まれて曲折を語る

って話です。彼は自殺志願者なのね。たぶん。けれど自身認めるとおり臆病もので、
死にたいけど、同時に誰か救って欲しいって欲望を常に持ち続けてる。
で、いろいろやって、自分が本来なるはずだった「救い手(=キャッチャー)」の役割をフィービーに押し付けて、逆に自分が救ってもらう。
鶏と卵みたいな話になってしまうけれど、
彼は死にたいからアリーになりたいわけで、
アリーになりたいから自殺って手段をとろうとしている、んじゃないかな?


・作品中ずっと、小説ないし小説家への高い位置づけと、ハリウッドへの軽蔑がセットで語られるよね
言葉で表現するということに盲目的な信仰をもってるみたいに

おなじく「インチキ野郎」への激しい侮蔑も。
どちらも、「僕」にとって外面的に飾ることでしかないよう

p47「自分が作文がだめなのは、コンマの打ち場所を間違えるからであって、他に理由はないんだって、そうひとに思わせたい」
ここに「僕」の文章観が現れているような気がした。”文章はそんな外面的なものではない、表現される中身が大事だ。”
p61 「部屋とか家とかいうものを描写するのは、僕は、あんまり好きじゃないんだよ。」
p63 「ほかには描写向きの材料って、なんにも思いつかなかった」
”中身”とはアリーのことだとおもった


>彼にとっては小説は『教養』で映画は『娯楽』なんだろうなあと思った。
ふざけてピストルで撃たれた真似をしてる時、確か映画の真似とか言ってなかったっけ?
自分の価値観の歪みを知っててやってるのが実に中二というかなんというか……
何とか社会に合わせようとしてる所は好感が持てるけどね。


>>嫌いだ、嫌いだといいながらけっこう映画は観に行ってるんだよねあいつ。フィービーとも行ったりしてるし

ポン引きモーリスにぶん殴られたときでしょう?
結局、妄想力だけが発達してしまって(ホールデンはそれが映画のせいだとおもってる)
ますます現実世界では力をもたなくなってしまう、そんな自分への自嘲なのかな
作家願望強そうだしね


>>>「嫌いだ」といいながら嫌いなことをする。
これは映画だけじゃなく、ああいう態度は嫌いだ、ああいう言葉遣うやつはきらいだ、
なんてことを言いながらほんの数ページ先でホールデンにほぼ同じことを作者はやらせてるよね。
これについては昔から言及があって、さっき紹介した竹内センセなんかは
「ホールデンもインチキ」なんだと名言してますね。

人をインチキと特権的な立場から決め付けるホールデンが、
そのことによって一番のインチキになりかねないのを、
ホールデン自身に映画他のインチキな行為をさせることによって回避してるのだ、とか。

(しかしこのへんの竹内の論証は、かなり怪しい)


・これってカフカの影響みたいなの受けてるのかな?
なんか『アメリカ』を髣髴とさせるようなシーンが多かった気がする。

ラスト近くで出てくる交差点を渡る時に自分が消えそうみたいな感覚も、

作者の意図がよくわからなかった。


>>アリーの死はこの作品のいちばん大きな軸で、二番めは「性的虐待疑惑」じゃないかな・・・とおもってる
後者はまたあとで話すとして、神に祈れない「僕」は、アリーが祈る対象になってるんだよね
ニューヨークへ行った目的は、広くいうと理解者を求めること、せまくいうと童貞を捨てること・・・理解者のいないペンシーを捨てて
アリーはそんななかでも自分ともっとも親和性の高い人物
あんなに自分を理解してくれそうな先生ですら、自分の仲間ではないと気づいて
いよいよ自分の居場所がなくなってしまったことを、あの交差点のシーンでは表わしているんじゃないかな


267 「みんなは実際のものをものだと思わないんだ。クソタレ野郎どもが」がこの作品の台詞の頂点だと思う


>>この小説は、明示的にも暗示的にもかなり多くの小説への引用を含んでるよ。
特に重要なのが明示される『グレート・ギャッツビー』
ぶっちゃけると、ホールデンはギャッツビーを理想として、ギャッツビーの死をなぞろうとしている。
他『武器よさらば』『響きと怒り』などが強い影をこの小説に落としてます。
もちろんカフカもね。


>>>最後に先生から諭されるシーンでそういうのはあったかも。

でもヒロイズムに陥るだけで、ギャツビーみたいにはなれないのよね。その伝でいうと、途中のロミオとジュリエット論はどう?


ああ、違う。ヒロイズムに陥るだけで、じゃなくて、ギャツビー自身が
ヒロイズムそのものなんだ、みたいなこと書きたかったのに、これじゃまったく
逆だわ。むしろホールデンの問題は自分のヒロイズムを捧げる相手が見出せ
ないのに、その欲求だけが膨らんでしまう、ってことなのかな。


>>>>引用作はうまーく使われてるんだけど、
ギャッツビーの雨の中の死を(儀式的に)なぞるというのが一番大きいかな。
彼の墓に書かれるファック・ユーはギャッツビーからの直接の引用だし。

シェイクスピアの引用はちょっとわかんなかった。オフィーリアが個人的には気になったのだけど。

引用では(ともに雨の中で重要人物が死ぬ)『グレート・ギャッツビー』と『武器よさらば』が明示されてるけど、
この二人を挙げたら挙げないわけにはいかないフォークナー『響きと怒り』もモチーフとして流用されている。
二章でクェンティン(大学だけれど学生という立場)が放浪して、妹のことをしつこくしつこく繰り返しながら、
自殺に至るのはこの小説全体の縮図かもしれない。


あ、ところで、さっき述べたホールデンがイノセントってほどでもない、というのと関連するのだけど、
6章の冒頭で実際に何が起こってるか分かりました? 春樹訳だと読み取るのは辛いかもしれないけど……。

彼がアンリライアブル・ナレーターで、「思い出せない」と言ってるのが嘘で、
はっきり語るわけにいかない内容だから、「思い出せない」といいながら、
でもどうもわかって欲しそうに周縁を語ってることにさえ気がつけば分かりやすいと思いますが。


>>>>>p59で、雪球を投げられず、そのあとも捨てられずずっと握りしめてたのが、なにかおかしいなとは感じてたけどそういうことか・・・


・アメリカでも日本でも

ホールデン=イノセンスの権化
(ただしイノセンスのニュアンスは多少違う)

ていう図式が定着しちゃってるけど、これも結構どうかなあと思う。
竹内センセの論もこっから結局抜け出しきれてないしなあ。

俺が思うに、ホールデンは確かにイノセンスを重要な価値だと思ってるようだけれど、
同時にホールデン自身はかなりイノセンスではなくて、
まあ歳相応ってことだけれど十分大人寄りで、汚れちまっているんじゃないかな。

・ホールデンって逃げ道を作るために嘘をつくけれど、すぐにばれてしまうような嘘しかつけないんだよな。
自分が得をするための狡猾な嘘ではない。
世間一般のまともそうな大人からすると、ホールデンは大嘘つきに見える(実際に嘘つきではある)。
でも、ホールデンからすると、まともそうな顔をして平気で私利私欲のために狡猾に嘘をつく「まともそうな大人」の方が大嘘つきなんだろうな。


>「インチキ野郎」にはぜったいになるもんか、という勢いだよね
でもその半面、外見がみすぼらしい人間のこと、目にするのが嫌だったりするし
そこは、あんなに嫌ってるインチキ野郎とちょっと似てるような・・・

大人を憎む理由は、世間並みに大人になってしまうと、アリーのことを置き去りにしてしまう、と心配してるのかなあ
p267 「みんなは実際のものをものだと思わないんだ。クソタレ野郎どもが」


・ライ麦、
「大人は汚い汚いてそんなに言うお前はどんだけきれいなのよ!」と思って尾崎豊のように嫌いだったが、
「そういう自分が実は一番汚いと分かってる」と読むとちょっと切ないな

>俺は嫌いだけどなホールデンみたいに最終的に自虐にもってく輩は
まるでν速民じゃんwみたいな
尾崎みたいに信念を持って社会への不満をぶちまけるほうが清々しくてかっこいい
甘っちょろいロックなんかいらない!


・この小説はもののやりとり、何かを誰かにやった、貸した、
って関係(あるいは行為)がかなり重要だと思う。
重要というか、図式的に分かりやすく当てはまってしまう。

「ライ麦畑のキャッチャー(救い手)」になりたがっていたホールデンが、
その象徴である赤い帽子をフィービーに与えてかぶらせる
(=フィービーを自分の「救い手」にする)など。

もののやり取りで思い出したけど、
その一つとしてストラドレイターのレポート書いてやるのに借りたタイプライターがあるんだけど、
これは俺にはちょっとわかんないんだよね。
重要な証拠の一つとしてあげてる批評家もいるんだけど、
昔のタイプライターって一台一台クセとか、字のずれ、字のカスレなんかがあって、
他人のタイプライター使って打ったらバレちゃうんだよね。
ストラドレイターの代筆してるんだからストラドレイターのタイプライター使わないとバレちゃうだろ、
って当たり前にも思えてしまって。


>その話kwsk
ホールデンが人にあげるものといえば”リップ・サービス”がまっさきに思い浮かんでしまうけど
もっと物質的なものなんだろうね


>「自分のが壊れてたから友人や図書館のタイプライター借りてた」ってことにしておけばおkじゃね?


>>うん。物質的な意味。
例えばジェーンとデートするストラドレイターに貸すジャケットであったり。
竹内はこれをホールデンとストラドレイターの入れ替わり、と読むけれど俺はそうは思わない。
単純にほんとは自分がジェーンとデートしたいホールデンの心情を引き受けて、
ホールデンの名代としてデートに(服だけ)出かける存在と思う。

入れ替わりということなら、むしろ自殺したジェームズ・キャスルでしょう。
彼はいわばホールデンの身代わり、あるいはホールデン自身の自殺の予告として、ホールデンの服を着て飛び降ります。
彼のイニシアル、J.C.は古くから指摘されてるけど、ジーザス・クライストのものですね。

>>「自分のが壊れてたから」
なるほど、そう言われりゃそれでいいね。
実際ホールデンは自分のが貸しっぱなしになってたから、ストラドレイターの使ったわけで。


>>>ジーザス・クライスト・・・そこまでは読めなかった。にしても、物がまるで感染呪術みたいだね
自分は、ホールデンが彼をそんなに愛し、尊敬してるのは、世のなかの外面性に逆らって、自分の言葉を守り通した
最後まで言葉に忠実だったからかなと思った


>>>>俺もJ.C.はなんかの論文で読んだだけだよ。

物の移動については、感染呪術的な意味あいで読むものと、
贈与論的(あるいはポトラッチ)に読むものがあると思う。

例えば修道女に10ドル押し付けるのは後者の例で、
売春婦とヒモに取られた10ドルのあがないだよね。


>>>>>贈与はこのばあい、他者とつながりを作ってしまうという行為なのかな
10ドルとられてさらに10ドル払うのもちょっと不思議な気がするけど

あのポン引きのエピソードは最高だった
ポン引きのまえに、ペンシーで手袋を盗んだ犯人がみつかったら・・・という妄想が描かれてるけど
あれは実際に妄想→ポン引きの順番で起こったんじゃなくて、あとから、語りの時点で捏造された記憶かもしれない、
とまで疑ったよ


>>>>>>大枠で「つながりを作る」という行為でいいと思う。
その上で、ある種の優位さを作ろうとする行為としても受け取れるかな。
ここで「奪われた」10ドルと、「押し付けた」10ドルは意味が違ってくる。
前者はホールデンの優位を作るわけではなくて、むしろ精神的・社会的に弱いことを示す。
また彼自身の規範に彼自身がそむいてしまったある種の罪、として取る批評家もいます。
後者はその罪をあがなうために、いわば自分の規範の上にかなってると思える修道女を、
その規範そのものの象徴として、「押し付けた」10ドルになるかな、と。

そうそう、ホールデンの名代としてジェーンとのデートについてくジャケットなんだけど、
ことに及ぶ時には当然、脱がれてしまうんだよね。もちろん。

それでさっきの六章冒頭でホールデンが「ナニしてたのか思い出せない」ことなのだけど、

かつて仲がむっちゃよかった幼馴染で、
それこそもうちょっとでいいとこまでいきかけたこともある相手が、
同室のヤリチンとデートに行くと知って、いても立ってもいられなくなって、
でもどうしようもなくて、今頃ヤられちゃってんじゃないかなとか、
幼馴染があんなことこんなことヤリチンにされちゃってんじゃないかとか、
そんなこと妄想しながら童貞ホールデンがやりそうなことです。
それで部屋に帰ってくるストラドレイターの足音にも気をつけてるわけだし「トイレに行きたくなる」というわけ。


>>>>>>>なるほどね~姦淫の罪にたいする贖いか、納得
でも修道女ってカトリックだよね?キリストが好きなホールデンは、プロテスタントっぽい姿勢だなとおもったんだけど

性に対する考えがずいぶんアンビバレントだよね。p227で、好きでもない相手とするのは無理、といいながら
p99では、規則を作っても、すぐに破ってしまう、と告白。なんか、古典的な「精神と肉体の対立」の図式がみえるよう
性的な興味優先で相手を好きになってる場面も多いし、
勇気がないことのいいわけかと思っちゃう。「気が乗らないとできない」というのと同じく。

そ、そんなことだったのか!
そりゃー人生で二度の喧嘩のうちの一回もしちゃうよね


>>>>>>>ホールデン自身の宗教認識は結構微妙な話題かも
多くの批評家の一般的な意見としては、無宗教的で、神は信じてない。
イエスを好きというのも、好き嫌いの問題で信じてるというのとは違う。
彼の神は自分自身の価値観・規範で、キリスト教的な姦淫の罪ではなくて、
ただ彼の規範に自ら背いたからホールデンは罰を受け、
また贖罪の相手が修道女なのは、彼女たちがキリスト教の使者としてではなくて、
彼の規範にかなう(インチキでない)人物だから。という感じだね。

その上で、アクリーとのやりとりなんかから考えると、
ホールデン自身はプロテスタント系の教会に属している(あるいは、少なくともカソリック以外の教会)のでしょう。
信じてもいないし、本人が語っているとおり、教会に行ってもいないけど。


性は重要なテーマだよね。

上で書いた野崎訳と春樹訳の比較で、春樹が「ナニ」を読めてないかというと、このことです。


>>>>>>>>そうか、わざわざ教会を持ち出すまでもなく解決するんだね
それにしてもホールデンのあの潔癖は、どこに由来するんだろうね?誰の態度をコピーしてるんだろうね
この小説読んでると疑問が山のように浮かんでくるわ
父親の影が異常に薄いのは、なんでか、とか

あのセックス魔人が性を読めてないとは意外だな

性は重要な問題。といっても所詮は童貞だから、実際の性というより、想像上の、出口、突破口としての性かな
青チンコがジェーンを「重要」どまりにとどめたのも、自分には納得がいった
何かをポジティブに描くんじゃなく、空白のでかさを、穴のまわりをぐるぐる周ることで示そうとしてるんじゃないか
そんな気がしてた


>穴のまわりをぐるぐる周る
これは重要なことだと思う。
空白のでかさを示すためかは分からないけれど、
この小説通じてホールデンはひたすら穴(あるいは本題や重要なもの)のまわりをぐるぐるし続ける。
電話かけるかけると言い続けて結局かけない。会いに行く行く言って行かない。など。
竹内センセは「ゲームに参加しない」モチーフとしてこれを捉えていて、
(フェンシングの試合ができない、アメフトの試合を見れない、などなど)
序盤の先生の「ゲームとは人生」とつなげて「人生に参加しない」姿勢と述べてるね。
ここまでは俺も賛成。竹内センセはそれを、「(ライ麦畑のキャッチャー=救い手として)ゲームの外で、
ゲームには参加せず(対象に手を触れることなく)相手を救う存在」へとつなげていくんだけど、
俺はそんな積極的なもんじゃないと思う。
むしろ「人生に参加しない」そのままの姿勢で、ホールデンは作中一貫して、
世間とか人生というものから、どうしようもなく、距離を取り続けていると思う。ほとんど離人症的に。

彼はほとんど世間とか人間関係とかと関わろうとして、そこでまた距離を取って離れるってことを繰り返す。
これは人生そのものへの距離が、ホールデンにはどうしようもなく埋められないのじゃないかな。
言ってしまえば物語のはじめから、彼は「死者」みたいなもので、
もはや「死者」としての立場から、世間や人生に接していることの表れに思える。

>>青チンコの読みには、やっぱりどこか青チンコの人となりが出てるような気がして、俺はちょっと嬉しい
>物語のはじめから、彼は「死者」みたいなもの
この感覚はすごくよくわかる。言い得てる。昔風にいうと「隠居してる」っていうか
自分はそこに、アリーへの、僕は君を忘れないよ、というメッセージを見た。僕だけは君を忘れないよ、と
だからこそ大人たちを拒否する。外見だけで、つまり目に見えるものだけで世界を構成しようとする大人たちに
「僕」がそこで手にする、唯一の武器は、言葉


>>>ホールデンはたぶん、物語の最初から「死者」で死をどこかしら意識していて、
いわば死に場所を探して放浪する(『響きと怒り』二章とパラレル)のだけれど、
彼の死は表面的なヒロイック(=ギャッツビー)や救い主(J.C.)をなぞりながらも、
どれにもなれないことをどこかでホールデン自身分かってしまうんだよね。

また彼自身も一方でずっと「救われたい」と思っていて、
結局救い手の役割をフィービーにゆだねて、彼女によって文字通り、自殺から救われる。
(このあたりは、お金とか帽子とかのやり取りが実に細かく作ってある)

と読んでいるんだけど、
やっぱ鶏と卵的なもの意外での「なぜそんなに死にたいか」と
より重要な、結局、彼は死にぞこなって、精神病院にぶち込まれて、
今物語を語っているわけだけど、それは幸せな(あるいは本望な)結末だったのか。ちょっとわかんないんだよな。


>>>>話がそこまで至ると、きっと誰もが読み過ごしてる献辞:「母に捧ぐ」に触れてもいいような気がする
語り手の「僕」と作者の距離の問題ね
「僕」はテクストに関して、自分が主体的に何かを表現する、という古典的な姿勢を保っているけど
作者はテクストにすべてをゆだねてしまってるんじゃないかな?テクストの陰にすっかり身を隠している
後半生の生きかたが証しているように


>>>>>サリンジャーのことに触れるのは、極めて難しいタイプの著作を書く作家なんだよね。
彼自身が隠遁生活を送ったから、ではなくて。

普通の小説のメタレベルを大雑把に考えると(数字が大きいほど上位のメタレベル)、

1 物語の中の出来事が進行するレベル 要は作中のレベルね

2 語り手のレベル 
ホールデンのように登場人物が語る小説でも、語ってるホールデンは語られるホールデンより上位と仮にみなす。

3 想定された読者・想定された作者のレベル
語り手とは別に、作品中に織り込まれた作者像、読者像のレベル。具体的に一人称小説で、
語り手(2)が語っているのに、語り手に無い語彙が現れたりする場合はこの「想定された作者」に帰す。
典型的なのが、白痴が語る『響きと怒り』第一章の語り。

4 実作者のレベル

となるのだけど(大雑把にユルく考えてね)、メタレベルとしての段階は同じ4つだとしても、
個々の作品によって、創作というか、作者の作り込みの念の入れようで、
この4つのレベルとレベルの距離が違うと思うんだよね。近いものから遠いものまで。
そして『ライ麦』は、作者の異様な作り込みのせいで、このレベルとレベルの距離が、
やったら遠い典型的な作品だと思うんだ。

それで作中から作者をすごく語りにくい感覚があるんだよね。

>テクストの陰にすっかり身を隠してる
まさにそんな感じだと思う。


>>>>>>そうなんだよ。
+と-が相殺されるように念入りに書かれてるから、何を指摘しても「あ、それはね・・・」と言い抜けられてしまうような
したたかさ。正直、今回読むまで「サリンジャー?青春小説だろ・・・」と舐めてたよ
実際はドストエフスキーと同じくらい問題豊富だった(自分にとってはね)

・アリーが死んだのが3年前(ペンシー退学前の時点で)、ジェーンと出会ったのが2年前
この時系列は重要だと思う
ジェーンにはアリーのことをたくさん話しもした。アリーのいない空白を、いくらかでも埋める可能性があったのに
いまストラドレーターに簡単に奪われそうになって、それがきっかけでアリーのことが念頭によみがえった
その穴をどうするか、というのがこの小説を流れているテーマ、というふうに自分は読んだ


>その読み方は面白いね。
まさにストラドレイターに奪われそうになっているその時、
ホールデンはストラドレイターのレポートに、アリーのことを書いているんだよな。
ストラドレイターの(架空の)弟のこととして。
ホールデンはジェーンのみならず、ここでアリーの思い出や過去までストラドレイターに奪われようとしている。


・ホールデンがやたら気にしていた池の家鴨はなんなんだろう


>俺も気になってるけど分からない。
あの辺はどうもキリスト教モチーフの臭いがするんだけど。

タクシー運転手が魚を引き合いに出すけど、魚といえばキリストの著名なシンボルの一つなワケで。
そこで言われる「自然が魚をうんぬん」てのはいかにも聖書っぽい。
で、博物館でエスキモーが氷の下から釣ってる魚にまでつながる、はずなんだけど、
ちょっと読みが俺には分からない。


>その人にとって「帰れる場所」があるかどうかっていうふうに読んだな
怒った運転手はきっと家族の愛は絶対だ、と思ってるんだろうな、とか


>>タクシーの運転手が典型なんだけど、ホールデンには人を怒らすとこがあるね。
これは彼が局外者(死者、竹内論ならゲームに参加しない人)だからで、
一般の人々の常識とか、普通の人々が普通に信じて安心していたいこと(アメリカならキリスト教も含む)を疑って、
その人たちが拠りかかってるものを不安定にしてみせるからじゃないかな?
自分たちのよりどころが崩されそうになると、普通の人はムキになって、怒ってそれを守ろうとするよね。
ホールデンは(一面としてだけど)そういう役割を持ってるとこがある。


>>>マージナル・マンだね。彼は人の心理が見えすぎるほど見えているよう
自分でもそれを自覚してて、それをポジティブ方向に働かすと
「僕は彼女を座席に釘づけにしちまったね。」「なんだか僕のせいで催眠状態におちいったみたいだったな」
だなんて

フィービーと『罪と罰』のアヴドーチャは二大傑物妹と誰かがいったのは名言


・聖書の素養がない俺はい家鴨をひとつの失望として読んだな
ミイラなんかでうまく表してたけど、上でも言ってた死者であること、と変わらないもの、を望んでいたホールデン君が
後者にたいして不可能なんじゃないかと疑いを持つことを表していたと思ったね。嘘じゃないよ。

関係ないけど平行して読んでいたせいかホールデン君がカラマーゾフのコーフィと混ざって困る


>それで思い出したけれど「時」というのも重要テーマだね
「時」「時間」に対して「変わらないもの」のモチーフは頻出して
(テストの答案から博物館にまでつながるミイラ、そうした止まった時間を収集し続ける博物館二つ
同じとこをぐるぐる周り続けるメリーゴーラウンドなどなど)
どれもホールデンは好意的なものとして受け止めている。おっしゃるとおり、死者としてそれを臨んでいるわけです。
博物館の場面は、いわば擬似的な彼の埋葬で。時間の止まった、変わらないピラミッドとしての博物館で、
彼はミイラ=永遠に変わらない死者、になろうとする。

他方で「時」「時間」に対して彼はかなり逸脱的(そこから逃れようとする)
常識外れの時間に人を起こす、電話をかける、
売春婦に「時計持ってるの?」と聞かれる(彼女としちゃサービスの時間を計る目的なんだろうけど)
年齢はいつも嘘ばっかりで、それも上へも下へも嘘をつく。童顔なのに白髪という肉体的な年齢の逸脱。
(尤も、これは単に、若造が大人のフリをして背伸びするんだけどいつも見破られる、というだけのことかもしれない)


これらと鴨をつなげて(シーズンのものとして)読むのは面白いというか、新しいと思う。
初めて見るかな? 時間関係の読みは多いんだけれど。


>>これおもしろい。カントを持ち出すまでもなく、「時間」というのは人間どうしの約束事なのかもしれない
ホールデンはまったく”死者”の立場から社会を眺めてるね。それの証左となりうる
年齢のことをいわれると、すぐにムカついてたしね、彼。


・うーん、考えて見るとまだまだ謎が多いな。
しかし、そろそろ寝ないとまずすぎるので失礼します。明日スレが残ってたら続き見させてもらいます。
それではお休みなさい~。

ネタバレ含む
ちょっとご都合主義で大雑把にまとめてしまうと

弟の死をいまだに消化できないでいる少年ホールデンは、
その精神的外傷から立ち直れず、自分自身を弟と同一視して「死者」となってしまう。
彼は弟と同じところに行く(自殺する)ことでそのショックから立ち直ろうと放浪して、
いろんな人々に別れの挨拶をし、ヒロイックな死や、あるいは救い主としての死を求めていくんだけど、
ホールデンは自分の死がそんなものにはなりえないことを悟ってしまう。
そして死地を求めた遍歴が、無自覚ではあったけれど、一方で自分自身が救われたいという気持ちで、
自分の救いを求めた遍歴でもあったことをうっすらと自覚しながら、こちらの望み(救われること)を
フィービーによってかなえられる。
最後に彼は収容先の精神病院でこの物語を語るわけだけれど、弟の死から立ち直るために彼がした遍歴は、
その遍歴によって死地を見つけることや、あるいは妹によって救われることではなくて、
その遍歴自体がホールデンの物語であり、それを物語として彼が語れる(騙れる)ようになることで、
ホールデン自身が自分自身を真に救うことができる。

という物語かな。細部のツメがかなり甘いけど。ご都合主義的には。最後ハッピーエンドにするなら。

よく分からないのは、あとはアントリーニ先生の挿話などかな。
この辺またみなさんに聞いてみたいです。




モラトリアムの落書き帳


ファミレスを舞台とした日常系・・・


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ポプラちゃんかわいすぎワロタw


モラトリアムの落書き帳
井波ちゃんもかわいいよね^^

原作だと井波ちゃんがぶっちぎりで人気だとか・・・


この作品はテンポが良くて安定しておもしろいです^^

今期みるのがないという方にもおススメ。気軽にみれます^^

さて、このアニメを見て


( ^ω^)あぁ・・・僕もファミレスでバイトしよっかなあ・・・


とか考えてる諸君はいないだろうか?

あえて言おう・・・


現実見ろwポプラちゃんなんていないwww


てか僕、ファミレスでバイトしてるんですね。もうかれこれ一年ぐらい・・・

こんなアニメのような日常ねえからwww戦場だからwww


ファミレスのバイトだけは止めとけ、マジで・・・




うむ、面白かった。


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ドリルと彩京さんはお互いが認めるライバル(友)となったのは、互いの呼び方の変化からもハッキリ・・・

まあどちらもかわいいすなあ・・・キャラもどちらも立ってるし、バランスの取りにくいダブルヒロインですが、この作品は上手くやってのけたのだと思います。


モラトリアムの落書き帳


ちょっと気になったのは主人公の「薄さ」でしょうか・・・

ハーレム系の作品ですからしょうがない部分もあるんですが。


うん、回が進むにつれて面白くなっていった「れでぃ×ばと!」

最初はただのエロアニメだと思っていたのだけれどw

初期は彩京さん一択でしたが、ドリルもどんどん可愛く思えてきましたしねw
みなさんはどちらが好きですか?僕は・・・



モラトリアムの落書き帳
僕は、桜沢みみなちゃん!



モラトリアムの落書き帳

Angel Beats! クソすぎワロタwww


という評価ばかりで、最終回まで突っ走ってもらって欲しかったABですが、そういきそうにもありません。

もともとこういった考察を促す作品は大好きなので、一概にクソとは言えませんねw

一話の感想は自分の精神状態の影響もあってか、否定しか書いてないですけどw


これからどうなるか期待。ただやはり作画は残念・・・


そしてこの作品は音に拘っているようです。下に転載


(天使が言っている言葉について)

ハンドソニック :刃(人を傷つける鋭利な刃物)  ローランド製デジタルパーカッション
                               
ディストーション:バリア(のような己を守るもの) 硬質で深い歪みを得る

ディレイ:残像(のように避け不意をつき攻撃する)原音を遅延

どれも音楽用語 1話では始まって冒頭でソナー音?らしきものが聞こえる
CMはさむところでたしか1オクターブぐらいあげた「ラ」の音をA終了B開始でならした
OPのピアノはなにかある 
どちらにしろ音楽用語かなりつかってだーまえなにたくらんでるんだか



そして、主人公の名前は音無。
いいねえw