他者、多様性、功利主義の与件としての暴力、或いは知識人の条件について
暴力は社会に不可欠である。何故なら、暴力とは破壊で有り、絶えざる破壊こそが人類の生存に不可欠だからだ。人間は不完全であるから、人間が構築した社会も不完全である。従って、秩序を求め、現状を固定化する事は、欠陥を固定化し、無知の無知へと自ら堕す事に相違ない。我々は暴力によって、無知の無知から脱却し、生成的に「その都度最適な」社会を持たねばならない。人類益の為には、「絶えざる暴力」こそが死活的に肝要なのだ。秩序という美名に騙されてはならない。秩序とは、破壊の放棄である。そして、破壊の放棄とは、不完全な現状の墨守に他ならない。状況の変化に合わせて、人類が生存する為にも、「暴力」こそが要請されるのである。
暴力は、暴力の対象を、つまり他者を前提とする。或いは、他者が存在するには暴力が不可欠である。暴力が必要なのは、自分とは利害関係や関心が異なる他者が存在するからだ。何故なら、暴力とは一種の強制であるが、自身とそれ以外が、同様な関心を持つならば、強制は不要だからだ。例えば、全ての人が飲酒しないならば、飲酒の禁止に、執行力は要求されない。執行力が不可欠なのは、或る事柄(飲酒)に賛成する人もいれば、反対する人もいるからである。警察(暴力)の存在は、他者の存在を前提とするのだ。一方で、他者が存在するには、警察(暴力)が不可欠である。或いは、多元性を有するには、暴力が肯定されねばならない。秩序は、多元性を否定するのである。
秩序とは、同一性の強制であり、無知の無知への入り口だ。何故なら、暴力を肯定し無くては、人は多元性を保持出来ないからだ。例えば、「暴力的で有る」という理由で、論争や喧嘩が忌避される社会を考えてみよう。この社会では、論争や喧嘩の齎す不和を恐れる余り、人々の価値基準が収斂する事になる。仮に、或る人が、社会の多数派に違和感を憶えても、「人間関係を壊したくない」などの理由によって、その違和感は表面化しない。結果として、不完全な社会の欠陥は固定化し、人間は「無知の無知」に陥ってしまう。秩序を暴力の上位に置く態度は、多元性を否定してしまうのである。喧嘩、論争、殴り合いなどのシステムが社会に存在せねば、社会には、(私とは価値基準の異なる)他者がいなくなる。暴力の排除とは、他者の否定で有り、多様性への挑戦だ。
警察や軍隊といった、暴力が存在しない社会は、私にとって悪夢で有る。何故なら、警察や軍隊が無ければ、意見の相違を人々は持たないであろうからだ。何故、今、人々が多様な意見を持てるのか?それは仮に「神々の争い」が生じたとしても、暴力(装置)の介入によって、やがては、争いが管理可能な規模に縮小すると信じているからだ。一方で、社会に暴力(装置)が無ければ、どうか?仮に「神々の争い」が生じれば、その様な社会は崩壊してしまう。人間は、生物であるから、「利己的な遺伝子」から自由でない。従って、人間は「自己の生存率」が最も向上する行動を取るであろう。そして、明らかに、「社会の崩壊」は生存に悪影響だ。故に、「暴力(装置)の無い社会」に於いては、多元性は維持されない。其処では、社会を維持する為、価値の一元化が進行する筈だ。それだから、価値の多元性によって、功利主義の理想を達成する為にも、暴力は維持されねばならない。
暴力には、二つの類型が有る。一つは、自己否定的な暴力で有り、もう一つは、持続的な暴力だ。私が、擁護するのは、前者で無く、後者である。
自己否定的な暴力とは、他者を否定し、結果として、暴力自身を否定する様な暴力だ。つまり、或る種の暴力は暴力自身の否定を目的としているのである。例えば、ナチス=ハマス的な暴力は、この類型だ。ナチスやハマスは、ユダヤ人という他者を否定する為に、暴力を行使する。そして、暴力の前提とは他者である。従って、ナチスやハマスは暴力を手段とした、暴力の否定を志向しているのである。私は、この類型の暴力を明白に否定する。何故なら、「暴力の否定=他者の否定」は結果として、秩序を呼び込むからだ。秩序は価値の一元化や無知の無知、そして、「現状の固定」を招く。現状は必ず不完全であるし、人間を取り巻く状況は可変的だ。それだから、功利主義の理想の為にも「社会の可変性=暴力」を肯定せねばならない。
私が肯定、擁護するのは永続的な暴力だ。つまり、他者や暴力を否定する様な暴力で無く、他者や暴力を肯定する様な暴力だ。例えば、モーリス・ブランショやエマニュエル・レヴィナスは、「終わりなき対話」について論ずるが、「終わりなき対話」とは「終わりなき暴力」に他ならない。或いは、対話こそが、永続的な暴力の典型例である。
先ず、対話の与件は他者だ。つまり、価値の相違が無ければ、対話は発生しない。例えば、私と貴方の見解が同一ならば、「1+1=2だ」「うん、その通り」という言葉の往復が生じるだけである。或いは、見解の一致が完全に自明視されている場合、この様な言葉の往復すら生じる余地は無い。その場合、貴方と私の関係は他者でなく、他我である。他我同士は、同様の価値体系に所属する。それらの利害関心は(家族的)類似性の下に有り、理念型としては対話は生じない。対話が生ずるのは、私と貴方が異なる価値体系に属する場合である。或いは、対話と他者の関係は、暴力と他者の関係の一種だから、逆ベクトルも成立する。つまり、「他者が対話を前提する」だけで無く、「対話が他者を前提する」のである。例えば、上司と部下の間に対話が無ければ、部下は上司の他我として振る舞う事になる。その場合、上司の価値体系は批判されず、部下はこの上で行動する。しかし、仮に部下と上司が例えば、飲み会や仕事を離れた趣味の領域で、私人としての関係、対話の関係を構築したとする。この場合、部下は上司に対して、疑問を呈する事、上司の価値体系について、議論する事が出来る。対話という形式によって、他我であった部下と上司の関係は、他者としての関係に変化するのである。
対話(ディアレクティーク)は、論破(ディベート)とは異なる。論破とは、他者を他我に変換する作業、すなわち、「暴力を否定する暴力」の一形態である。何故なら、論破=ディベートの目的は、他者に対して、自分の価値規範を承認させる事だからである。論破は、結果として、価値を一元化し、秩序を齎す。これは、前述の理路に従って非功利的だから問題である。又、論破において、より危険なのは、自己に於ける「無知の無知」である。何故なら、論破の目的が、「他者の否定=自己の拡張」である以上、論破王は自己(の言説)の限界や欠陥を無視し、他者のそれを突くようモチベートされているからだ。論破王は、「誰にも論破されない自分=変化しない自分」である事をメディアから要求されるが、それは「不完全な自己を固定化せよ」という要請なのである。一方で、対話は「他者を否定する事=自己を拡張する事」を目的としない。それだから、対話によって、自己はその不完全を自覚し、変化する事が可能だ。又、対話が他者を否定しない以上、価値の多元性は担保され易いと言えよう。結局のところ、対話と暴力は連続的だ。或いは、対話は暴力の一種である。これによって、我々は不完全な現状を破壊し、社会を状況に適合させる事が出来る。
最後に、知識人と暴力との関係を論じる。私が思うに、知識人とは、暴力と親和的な人の事だ。つまり、自分が暴力を行使したり、或いは、行使されたりする覚悟を有するのが知識人の条件である。先ず、暴力を行使するとは、「不完全な現状を破壊する」という事である。これは、社会の多数派に対して、彼らの欠陥を突き付ける訳で、反感を買う事必至である。例えば、ソクラテスやイエスは彼らが属する体制の欠陥を提示したが、社会からは追放された。多数派は、彼らの社会を否定される事を忌避した訳である。しかし、多数派の秩序的な態度は、非功利的だ。人間の不完全性に伴う、不可避な社会の不完全性を踏まえると、知識人が「暴力的に」現状を破壊する事は不可欠である。何故なら、知識人の社会への暴力によって、初めて、多数派は「無知の無知」を自覚し、より現状に適したシステムの構築へと歩みを進めるからだ。次に、知識人は自らが破壊される事を恐れてはならない。例えば、対話によって、自身の欠陥を指摘された際、不完全な自分を保身してはならない。却って、不完全な自分を破壊せねばならない。これは、「他者からの暴力を受け容れる」という事である。それだから、議論を恐れ、「不完全な自己に停滞する学者」は知識人とは言えない。知識人は絶えず、不完全な自己を他者との対話によって、暴力的に破壊する人の事である。