アガンベンの問題提起は鮮烈だ。彼は、『私たちはどこにいるのか?』でこう問いかける。「延命にしか価値のない生に意味などあるのか?」と。私は、全面的にアガンベンに賛同したい。思うに、生とは手段であるべきであって、目的化する事(或いは、「目的としての生」を強制する事)はグロテスクである。何故なら、その様な生は大変に無為なものだからだ。例えば、社会的な交流も、あらゆる活動も許されず、ただ「生きる為に」自室へと隔離された生。(アガンベンは、コロナ禍を念頭にこの様な生を描写した)そんな生に価値などあるのだろうか?これでは、もはや、ただ授業中に寝て何ら得ない学生と同じ様なものである。我々は、生存「権」について考えねばならない。現今の生命至上主義が追求しているのは、生存「権」では無く、生存「義務」である。そこでは、コロナ禍の自粛警察に典型だが、「生それ自体」が目的として、「強制」され、あらゆる個性や特性は捨象されたのだ。生存「義務」は人間からゾルレンを奪い、ザインへと圧縮してしまったのである。
ゾルレンから、ザインへの圧縮を日本史の文脈で考えるならば、それは昭和が辿った過程である。つまり、昭和初期の日本人は「國體」というゾルレンを有し、生はそのゾルレンを達成する手段であった。一方で、戦後の、特に高度経済成長期以降には、その様なゾルレンを掲げて、生を送る事は許されなかった。例えば、三島由紀夫は生存「義務」を否定し、ゾルレンの為に生を手段とした人だが、彼について語る事は或る時期まではタブーであったという。より最近に引きつけるならば、例えば、統一教会員はゾルレンを有する人々だが、彼らは(詐欺行為など危害原理の侵害を行ったか否かに関わらず)日本社会のタブーである。カッコ付きの「戦後」とは日本人がゾルレンを忌避しだした時代、或いは、「生存義務」の時代なのかも知れない。
私は、何も「戦前へ帰れ」と主張するものでは無い。何故なら、戦前のゾルレン(國體)は一種の強制であって、それ以外のゾルレンの存在を拒否したからだ。私が志向するのは、各自が各自のゾルレンを自由に追求出来る空間である。そこでは、「戦前」の様に、「一つのゾルレン」が強制されてはならず、「戦後」の様に「生存義務≒ザインの強制」がされてもならない。必要なのは、生存「権」を回復する事だ。つまり、意思に基づく生の自由な使用を担保する事である。思うに、現下日本の、或いは、コロナ禍に於ける各国の、社会は生存「権」という概念を毀損したのではないか?そもそも権利とは、自由意志で放棄できるものである。例えば、「受講の権利を有する」という場合、それは「受講しても良い」という事だ。決して、「受講せねばならない」という義務とは一致しないのである。同様に、生存権も「生きねばならない」という強迫観念や義務の形態を取るべきでは無い。それは、「生きても良い」というオファーの形を取るべきだ。何故なら、生存「義務」は前述の様な無為な生を強制するからだ。その様な生を生きたい人は、生きれば良い。しかし、私はその様な生に絶対に同意出来ない。生とは、手段であるべきだ。生に、或いは、存在に過剰な価値を置いたって、良い事は無いのである。例えば、「登校≒学校に存在する事」それ自体には価値はほぼ無い。あくまでも学校で得られる体験や知識に価値が有るのだ。それだから、辛い思いをしてまで登校するのは、自縄自縛で愚かであろう。そんな無駄なストレスに耐える位なら、早いところフリースクールでも探すべきなのだ。生だって、生それ自体に価値は無い。生を通じて、何を為すかに価値が有るのだ。(或いは、そう考える事が、ストレスを低減するので功利的だ。)
「生それ自体に価値が有る」というザインの強制は何処からやって来るのか?生存義務を作り出す力は何か?恐らく、その一つは資本主義であろう。資本主義に於いては、労働者=労働力商品は無個性/無ゾルレンで無くてならない。何故なら、個性やゾルレンを有する労働力商品の再生産コストは高く、剰余価値の拡大に資さないからだ。「ただ生きよ」というイデオロギーによって、資本家は無個性な労働者を再生産できる。それは、彼らの利益に資するのである。思うに日本の戦後は「資本主義の時代」でもあった。「生存義務=生命至上主義」は資本主義というシステムを支持するイデオロギーなのかも知れない。
「生存義務」は、しかし、無知の無知を惹起する。すなわち、「ただ生きる事」を強制された我々は現状に疑問を持たなくなり、社会の欠陥を固定化させてしまうという事だ。我々がゾルレンを持たない限り、現下の社会システムは固定化される。そして、人間が不完全な以上、現下社会システムの固定化とは、「欠陥の固定化」である。欠陥が固定され、それが指摘されず、改善しない社会は持続的だろうか?そんな事は無い。皮肉な事であるが、「生存義務」によっては、社会の生存は担保されない。「生存義務」的な、ゾルレンが忌避される社会では、社会の欠陥が固定化され、社会システムは劣化し続けるからだ。「生存権」を行使し、ゾルレンを体現した三島を黙殺した、昭和元禄はその典型であろう。そして、コロナ禍に於ける自粛警察もそうだ。彼らは、「生存せよ」と呼びかけるが、生それ自体に何の意味が有るのか?又、ゾルレンを持たない自粛警察に現下社会を批判する事は出来るのか?恐らくは出来ないだろう。従って、彼らは無意識にか、意識的にか、社会の欠陥を見過ごし、「生存の放棄」を行っているのだ。