家族というのは純理論的には、人間を「機能」や「ザイン」に解体するシステムである。すなわち、そこでは個々の個性や質的側面は捨象され、「物質」としての我々が主題化する。或いは、主題化「せねばならない」のである。この点は、特に親から子への関係に如実だ。
親やその役割を果たす人は、子が単なる赤ん坊の時点から「それ」を世話する事になる。今、「それ」と表現した様に、赤ん坊というのは殆ど物質的だ。何故なら、彼らには人格も価値観も無いからだ。我々の人格や我々の価値観は言語や経験によって形成される。しかし、赤ん坊はこれらを当然に持たないので、「それ」は人間というよりは物質なのである。又、親が「産まれた瞬間から」子に対する義務を持つ(これ自体は、親が子を産まねば、子が苦しむ事も無い訳で、倫理的に妥当である。)という事は、親は子の人格を見ていない/見るべきで無いという事である。思うに、親が子の人格を見るのはグロテスクだ。何故なら、「我が子は人間的に素晴らしいから世話をしよう」という時、親の義務は仮言命法になってしまうからだ。前述の理由で、親の義務は定言命法的であるべきだが、それなら、「子の人格」は、純理論的には、家族に於いて疎外されている。或いは、「血縁なら無条件に助ける」という家族の包摂性/定言命法性は、実は、「お前の人格を見ていない/お前を物質的に扱う」というグロテスクな宣言なのだ。
ここまで述べた、純理論的な意味での家族関係は解体されるべきである。何故なら、その様な関係に於いては、対話が不可能だからだ。先程論じた様に、純理論的な家族に於いては、特に子は親から、「物質」と扱われざるを得ない。より広範に考えても、家族の「定言命法性=包摂性」は実の所、家族構成員の人格捨象を要件としている。それだから、純理論的な家族に於いて、各自が各々の見解をぶつけ合うという意味での対話/議論は不可能である。対話/議論が形成する人格性(個々を独自の主体と扱う態度)のベクトルと純理論的家族の形成する物質性のベクトルは矛盾すると言えよう。そして、人間が物質化した状態、対話や議論が不可能な状態は非功利だ。何故なら、個々の見解の欠陥や改善点は議論によって生じるもので、それは非家族的な人格的関係を与件とするからだ。対して、家族的な包摂的/定言命法的な関係では我々は人格について無頓着となり、従って、その改善も行わなくなってしまう。恐らく、純理論的な家族が齎すのは「貴方の人格はどうでも良い」という無関心であり、各自が各自の人格や価値観に自閉した(従って、それらの欠点が露呈しない)「相対主義的な無知の無知」であろう。
この様な家族の物質性/非人格性を如実に示しているのが、「サザエさん」である。「サザエさん」は磯野家の日常を描く訳だけれど、この日常というのが、物質性の象徴だ。何故なら、日常とは、特に「日常系」などという場合、波乱の小ささや物語の不在を意味するが、これらは非人格性によるものだからだ。普通、人格的な関係というのは波乱を伴う。それは、他者との直面であり、双方にとっての変革だからだ。例えば、友人との真剣な議論や対話は、とても「日常」などという毒気の無いカテゴリには分類し得ない。或いは、三島由紀夫と全共闘との議論に強く見られるが、相手を互いに人格と認めた議論(つまり、「好敵手」との関係)は激しいものである。一方で、日常は穏やかだ。この穏やかさの一因は、相手との衝突が乏しいからであろう。では何故、衝突に乏しいのか?ーそれは相手の人格や価値(すなわちゾルレン)に無関心だからだ。仮に、相手の人格や価値に関心が有るなら、それに我々は何か意見する筈だ。そして、この意見は衝突を生み、衝突こそが、相互を成長させる。一方で、「日常」はこの様な「激しさ」から無縁であるが、それは相互のゾルレンへの無関心、ひいては、物質的関係性によるものであろう。
純理論的観点からは、家族は解体されるべきだ。何故なら、家族の定言命法性は我々の人格を疎外し、物質性へと解体してしまうからだ。物質としての我々は対話も議論も出来ない。それでは現状は批判さえず、改善は不可能だ。又、人格への無関心は「相対主義的な無知の無知」を生んでしまう。これを打破するには、「包摂性、定言命法性」という伝統的な家族像を改め、親子関係からではなく、配偶者間の関係から家族を捉え直すべきだ。そうする事で、家族というものを一つの人格的なアソシエーションとして位置付け直せると考える。