お礼参り

 

「神社仏閣に願を掛け、その願いが成就した時に、お礼として礼拝や布施を行うこと」

⇒しかし、その意味合いを転じる形で、犯罪者などが「警察に告発した者」や「裁判で不利な証言した者」に対して行う報復行為やあるいは学校の卒業生が在学中に恨みを持った教師あるいは同級生、下級生への報復、「上司と部下」「先輩と後輩」という立場で虐げられていた場合に関係解消後として行う報復行為などを意味することもあり、俗語といった面も含まれている。(引用:wikipedia)

 

信用金庫を退職することになってから、お世話になった上司のうち、近頃では疎遠になりつつある方々を訪ねて回っている。私が信用金庫を退職することを、自ら出向いて説明することが礼儀であると考えているからだ。

 

訪問することにより私の誠意を示すとともに、その部署の人数に合わせて手土産を持参する。

 

事前にアポイントを取っておくのがマナーかもしれないが、電話口で相手に遠慮されてしまうと訪問しづらくなるため、全てアポイントを取らずに実施した(本部職員は退職手続きのときに予定している)。突然の訪問であるにもかかわらず、全ての方にご挨拶できた。多忙な彼らの時間を奪うことについて後ろめたさを感じながらも、私は手短に要点を話し、上司からは考えやアドバイスをいただいた。

 

この機会を通じて、彼らと私の大きな違いに気付いた。彼らは会社の将来や進むべき方向性について彼らなりの意見を持っており、それを発信している。一方、勤務時代の私は、「意見は持っていたが、身近な職員にしか発信していない」状態であった。

 

たしかに彼らと私の立場は大きく違い、基本的に私は経営に関する意見を発信する機会が与えられていない。ただ、機会を与えられていないから意見を発信しないという姿勢が正しいものであったのかを反省すべきなのかもしれない。

 

彼らの話を聞いたあと、信用金庫が大きく変わる可能性を感じ、「退職は少し判断が早かったか」と考えた反面、彼らの立場を持ってしても信用金庫の進む方向を変えることが困難であることを非常に残念に思う。

 

人生は選択の繰り返しであると思う。

今般、私が信用金庫を退職する選択をしたように、彼らもこれまで多くの選択をしてきたであろう。今回の「お礼参り」でいただいた人生の先輩からのメッセージは、これからの私の人生の選択に少なからず影響していくであろう。

 

お礼参り

社会人として未熟な私を育てていただいた上司に感謝の意を伝える良い機会であったと感じる。

突然の訪問であるにもかかわらず、気持ちよくご対応いただいた上司の方々に改めて感謝の意を示したい。