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転寝のブログ・頭で分かりゃー苦労しないんだよ

徒然なるままに日々のあれこれやらを綴ります。


起きてネットで福島関係をうろついた。
ハリー師匠の原発批判を真面目に真剣に考えてみたいと思ったからである。正直、途中から原発事故の事や、放射能汚染についてはどうでも良くなってしまった。

いや!
どうでも良い訳が無い。子供の甲状腺の嚢胞…無視したらダメだとは思う。しかし、それにはアンチテーゼもあって、そもそも小児の甲状腺検査の事例自体少なく、甲状腺異常が発現するのは成人を過ぎてからだと言う事や、甲状腺関係の疾病が案外治癒しやすいものである事。甲状腺関係の疾病の進行が遅く、もしかしたら嚢胞の問題も同年代で抽出検査されれば収束されかねない事。等々、真ん中で見るとどっちもどっちだが、どっちかというと反原発的でない科学的所見の方が冷静であり、信頼性が持てる事を考えると…

原発事故後の体調不良に関しては放射線被曝と言うよりPTSDだ。心的外傷後症候群である。
専門でないので断言するな?断言しよう、今体調が悪い貴方、貴方はマグニチュード9と言う人類史でも稀な自然現象の脅威を体験した精神の持ち主です。精神的衝撃は肉体に、必ず現れます。一度放射線被曝怖ーいと思いながら現地に行くだけでも恐怖心は肉体に症状を表すのです。さぁ、深呼吸してストロンチウムを肺一杯に吸い込んで下さい。どうです?生きてますか?大丈夫、死ぬ時が寿命です。

が、反原発の人々が恐怖に戦くのは宜なるかなだ。無知からとか情報不足からとはいえ、小さな頃から怖い物として精神に植え付けられた現実を前にして、誰が平静を保てよう?私はいつでも死んでいるので大丈夫。

それより、以前から福島には何かある、と思っていた。
大嫌いな勲一等と小泉と安倍氏が何故か福島に絡んでいるのである。前記の覚書はその一旦である。福島には原爆が設置されていたのではないか?と、ミンスの原口の国会答弁を聞いた時にも思ったし…ま、しかしこれも多分杞憂であろう。遺憾いかん、最近陰謀脳が暴走したがるのである。
もし本当に福島のあれが小型核兵器の爆発なら、子供の甲状腺もこれから当分の福島も心配ではあるが、もちろん、陰謀脳のイメージングでしかない。
■被災地へ国外初の医療団、イスラエルから成田着
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110327-OYT1T00417.htm

マグナBSP

イスラエル研修者2名、外傷性ショック死で死亡
「4月4日の産経新聞によると、東京電力は3日、福島第1原発で東日本大震災の発生直後から行方不明になっていた男性社員2人の死亡を確認したと発表した。2人は4号機の発電用タービン建屋地下の調査に向かい、津波に巻き込まれたとみられている。大津波警報は出ていたはずだが、なぜ地下の現場に向かったのか。東電は「事実関係は調査中」と述べるにとどめている。東電によると、亡くなったのは小久保和彦さん(24)と寺島祥希さん(21)。2人は定期検査中の4号機で、電源の操作などを担当。地震発生時は中央制御室にいたが、その後、連絡が取れなくなり、東電が捜索を続けていた。タービン建屋地下1階は全域に放射性物質で汚染された水がたまり、3月24日時点の水深は約80センチ。東電は17ー26日、汚染水の一部を「復水器逆洗弁ピット」と呼ばれるタンクへ排水していた。2人の遺体が発見されたのは30日午後。1人は水面に浮いている状態で、もう1人は水のない場所で発見された。東電は排水や遺体発見の事実をこれまで公表していなかった。遺体は翌31日に運び出されて除染作業を行い、4月2日に死亡確認と家族との対面が行われたという。東電によると、死亡推定時刻は3月11日午後4時ごろ。死因は多発性外傷による出血性ショックで、津波に巻き込まれて死亡した可能性が高い。東電福島事務所によると、一般的に地震発生時には、震度に応じて発電所内をパトロールする業務があるという。2人の当日の行動について、東電は3日の会見で「事実関係は調査中」と繰り返した。

5月15日のMSN産経ニュースによると、東京電力福島第1原発1号機の原子炉建屋内で東日本大震災発生当日の3月11日夜、毎時300ミリシーベルト相当の高い放射線量が検出されていたことが14日、東電関係者への取材で分かった。高い線量は原子炉の燃料の放射性物質が大量に漏れていたためとみられる。1号機では、津波による電源喪失によって冷却ができなくなり、原子炉圧力容器から高濃度の放射性物質を含む蒸気が漏れたとされていたが、原子炉内の圧力が高まって配管などが破損したと仮定するには、あまりに短時間で建屋内に充満したことになる。東電関係者は「地震の揺れで圧力容器や配管に損傷があったかもしれない」と、津波より前に重要設備が被害を受けていた可能性を認めた。」








(Magna BSP社の仕掛けたカメラによる福島原発爆発の映像:エルサレムポスト


http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch2564021/68444/69ed7fd1de05d2162b60c2b07eb753f2b2144bf3.jpg

安般念とは何か?
四念処である。

安般念とは何か?
七覚支である。

安般念とは何か?
まったき禅定である。

そこには身受心法がある
方法は無い。ただ座り、出入息がある。

それは楽住であり、寂静であり寂滅である。
故に座る時、静寂がある。

安般念において、止観と観は成就し、安楽とある。
安楽と在るのは法であり、解脱である。
解脱とは行住坐臥における安らぎである、何故ならそこに思いは無く思わざるものはなく思う主体もなく、思わないことがない主体も無いからそれは禅定なのである。

全く座すものは幸いである。

合掌









怒りを斬り殺して安らかに臥せ。
怒りを斬り殺して悲しまない。
毒の根である最上の蜜である怒りを斬り殺す事を、聖者は賞賛する。
それを斬り殺したならば、悲しむ事は無いからである。
-サンユッタニカーヤ-p237

貪りを斬り殺して安らかに臥せ。
貪りを斬り殺して悲しまない。
毒の根である最上の蜜である貪りを殺すことを、聖者は賞賛する。
それを斬り殺したならば、悲しむ事は無いからである。

無痴を…以下同文

1はサンユッタニカーヤの句である。
仏陀は確実に2、3も説くだろう。後の禅、公案に繋がる教え。
刹那に、怒りを、恨みを、憎悪を、見出して斬り殺すだけである。即座に、それを己が内で斬り殺し続けるだけである。誰一人傷つく事も無い。

安楽であれ…


合掌

肉体が悲鳴をあげるのであるw
だが脳細胞はフツフツと?滾って思惟する。面白いものだ、身体が疲弊し、消耗し、回復する間もない日々の中で思惟は疲弊しない、

さはさりながら、精神は疲弊する。
精神は容易に疲弊する。
感覚は疲弊するし、感受も疲弊する。
精神は鈍感になっていく。

しかし思惟は疲弊しない。
何者にも、何物にも依存する事なく思惟は深まる。
念は深まる。
なにものにも依存しないからだろう。食物にも、刺激にも、依存せずに在るからだろう。

常に思惟は問いかける。
理性は理性足りうるか?
情動は情動に収束するか?
思考は適正か?精神は病まずにいるか?と。

痩せて骨ばかりの私の行はそのまま死ぬまで生きるw
うん、疲れた。けどまだ終わらない。
救いなど求めないし、救われる自分は何処にも見出されない。
自分と言う中心無き思惟だけが問続ける。


合掌

当たり前の事を考えてみると意外に途轍もなくスケールの大きな話になったりする。

毎日がそういう問いかけで満ちていると人生は興味深い。
毎日そういう事ばかり考えていると一日は長く、途轍もなく長く、そして短く楽しくもなる。

ああ、そうだった。
雨だ。
雨だった。昨夜は一晩中降り続いていた。
その中を日常食用の米を買いに出かけた。
傘をさして車まで歩き始めたら惰性でそのままスーパーまで歩いて行ってしまった。

迷彩ズボンが濡れていき、米は重かった。
バカな話だと感じながら歩いていた。何故車に乗らなかったのだろう?雨だからだ。どうせ少しは濡れるのなら歩いても車でも同じではないか。ただ重いだけだ。
当たり前のように雨は降っている。

雨の降る直前の匂いは誰でも知っているだろう。あのオゾンの匂い。似た匂いは滝や流れの早い川のそばで感じる事が出来る。
雨は、空気中の水蒸気の粒子が固まって降る。水蒸気粒子が集まる。雲が低い高度で発生し密度が高まり圧力が生じると重力に抵抗出来ず水となって地上に降り注ぐ。それが雨だ。

では何故空気中の水の粒子は互いに引き寄せられるのだろう?
その解は案外近代になって発見された。宇宙線による微粒子の電化による磁力の発生である。
宇宙線は何処からやってくるのだろう?
それは当然宇宙からだ(笑

はるかな宇宙のどこかで常に発生する恒星の爆発や銀河中心での恒星の衝突によって宇宙線が生じるとされる。それが地球にまで旅してきて、やがて我々に雨として降り注ぐ。
つまり、雨は宇宙の恵みである。
そう考えると雨も偉大だ。

くだらない事だが、そんな事を考えながら歩くと重い米も時間も距離も忘れて移動は終わる。
ちなみに、宇宙線は常に地球に降り注いでいるのに何故地球は一年中雨で水だけの星にならないのか?それは宇宙線を太陽の磁場が遮断してくれるからである。もし太陽の磁力線の活動?が弱まれば地球の温度は低下する。

太陽は呼吸している。
太陽だって休憩する事はある。co2地球温暖化説なんて下らないSFより太陽さんの健康を気にしたほうが良さそうだ。

合掌
 
とても簡単な事なのだが気づけない事もある。
目の前に書かれていても、余りにも明白であるが為に触らないものがある。
そこにいるのに、そこにいない。

ここ数日、まともに食事が入っていかない。
少し食べるだけで胃が詰まるような感覚なのだ。だから食べないw
食べないで空腹感に注意し続けて、それを大事に観察していた。そこから何かが抜けていくから、抜けて行った物が身体から欠けるから身体は軽くなる。
全身がけだるい。
力が抜けていく。

歩くのにも足が悪い人のようにしか歩けなくなる。
全てが、錘をつけた動作になっていく。
あまりよろしくない。誰にもおすすめはしない。むしろやっちゃダメ。無理にでも食べた方がよろしい。私は愚かさを自覚しながら自己責任で空腹を観察するだけ。

容易に座れる。
よいしょっ、と腰を下ろして足を組んで、そのまま行にはまる。
蝋燭に火をつけて、線香を焚いて、蝋燭が消えるのに2時間。線香は1本15分で消える。
目は閉じずに、今ここにある。
どこにも彼は行かない。何処にでも行けるけど、ここにとどまれば良い。

雑念や思考を排除しようともせず、座るだけ。
どこにも緊張はなく、疲れもない。こうしているだけなら、一日一食で十分だし、2日で一食でも良いだろう。残念ながら仕事やら何やらをするためには食事は避けて通れない。
絨毯の傷。
そこに目を留めて、目を縛り付けて、そのままにしておけば良い。畳の目でも良いだろう。

これだけの図式。
目を留め、座り、心を解放し、思いを解放し、念を留めるだけ。
只座る。思量は次第に鎮まり、心の働きは次第に停止し、念はそこにとどまる。
只座る。

合掌

 
深夜の放送に目を向け、問いかけるのは明確化されない混沌だ。
それをままならぬ言葉で問い、拒絶し、受容する。

私はその先で君と共に感じているよ。
どないもこないもならないよね、人生と言う奴は。生きるとはそういう事だ。
反論すれば良い。
罵ればいい。
それで少しでも心が何かを見出すのなら。

私は触れた時、一緒に泣いてやろう。
そういう事くらいしか出来はしない。
もし目の前にいるのなら、優しく抱きしめてもやろう。

心配は要らない。私自身はどうでも良い。
私はたまたま通り過ぎる、道を横切る黒い猫で良い。
私という事象がやがて消えても、通り過ぎた猫が、呟いていた安楽であれ、と言う言葉だけを覚えていてくれれば良い。

合掌



目は開けたり閉じていたりする。
どちらにしても盲が見るように見るだけであり、唖のように聞くだけ。

何一つ求める事はない。
ブツブツと呟く声に聞き入るだけ。
その一言一言が自分であり、自己であるだけ。
それが呟くままに任せるだけ。

瞑想なのだろうか?
そういう言葉で定義するのは不適切かも知れない。


ありとある物を懐疑する時、言葉すら懐疑の対象となる。
座る時それはそのように働く。
空白と気付きと紡錘体の頂点と底辺にある。
今が頂点ならそれは今そのものであり、底辺は膨大な過去だ。

頂点には時間もない。
明日も無く、今も無く、過去もない。
頂点も底辺も自分だからそれら全てが自分なのだ。
そのままにある。

合掌

今日は脳の調子、いや思考の調子が少しズレていた。
身体が重いのは年齢とデパート型疾病人間として驚くには当たらない、問題は思考だ。院内を動きまわった後診察までの待ち時間に入る。

夕方に近い予約時間。3時から諸々の検査を受け、診察が始まるのは16時半以後になる。
総合病院はそんな時間でも診察を待つ人が減らない。
20年以上、毎年家族の誰かが入院したり出たりするここに、自分がお世話になったことは無いが、全ての光景が見慣れている。少しずつ変化していても、システムも看護婦も、医師も、皆変わっていくけれどこの場所の場所感?が変化した事は無い、と思う。

最近は待つ時間も苦にはならない。
腰をかければ座れば良いのだ。
雑音も動きもそれぞれに任せて座ると時間などそもそも有りはしない。床に接する足椅子にかける腰、空気、全ての感覚は分かちがたく座った時から拡大していく。

開いている目は視点を失う。
病院中に繋がって病室で、手術室で、裏側で人々と切り離し難く、そこで言葉は消えていく。もちろん、声は聞こえているし見えてもいるw
とても大きな病院が呼吸し、生き、死ぬ。
そういう場所なのだからそうなのだw

少々ズレていた思考が待っている時間の間に戻っくる。やっと思惟出来る。
凝り固まっていた筋肉がほぐれている。
空腹が(朝から何も口にしていない)心地よい。
母と美味しいネルドリップの自販機のコーヒーを飲んで病院を18時半に出た。
今夜は雨だ。


合掌