中学生の四女と名探偵コナンの映画を観てきた。
ゴールデンウィーク、ババ抜きと人生ゲームとprimeビデオだけじゃ、あまりにも可哀想だから。
コナンの映画は、ドカーン!ガシャーン!キキィー!という、ありえない様なカーチェイスとか爆破劇の中、いつも擦り傷で生き延びる主人公達のスリルがファンにはたまらないのだと思うけれど、あまりに現実主義な私はこれが実に苦手で、いつも子供達だけで観に行ってもらっていた。次女が別に暮らす様になり、長女は祝日は仕事、三女が亡くなって、私しか一緒に行く人がいなくなってしまった。
テレビ放送を一緒に観ても、「これは絶対死んじゃうから、、」と現実的なコメントをして子供達に嫌がられてしまう。今回も、思わず「いやいやいや、、」とエンターテイメントとしてあまり楽しめなかった。楽しむ四女を横目につまらない性格だと我ながら思う。
そして、三女が辛い事があるとふわふわと上から自分を見ている感覚と言っていた事を思い出す。きっと、そうやって辛い事をやり過ごすスキルを身につけていたのだと思う。カウンセラーにも、同じ表現で伝えていた様だ。
次女に知的障害があり、小学校で適切に対応してもらえず激しいいじめにあった。子供というのは賢いもので、大人の目のないとこで上手く残酷にいじめを行う。下校時、5年生の次女を数人の男子が囲んで、ほぼリンチ状態だった時、2年生だった三女は恐ろしくて助けらずに隠れていたと後から聞いた。
高校生の頃、次女は小学生から長く続いた精神症状が悪化して長期入院した。その頃、三女は部活や受験のストレスもあり、病的に万引きをする様になった。万引きする自分を、ふわふわと上から見てると。そして、次女があの様になったのは自分のせいだと狂った様に泣いた。そんな事はない。あなたのせいではない。目の前の事を頑張ろう。そうやって守ってきたつもりだった。次女と一緒に治療してやればよかったのに。障害のない子は、親の責任でどうにかしていかなくてはと、心のどこかでブレーキをかけていたのかもしれない。外では明るく皆に好かれる三女のイメージを親の見栄で守っていたのかもしれない。
そうやって、ふわふわと上から自分を見ないと生きて行けなかった三女にとって、どこからが生と死の境目なのか分かりづらかったのではないかと思う。
3年間、丁寧に入院生活を送り、地域に支援体制を固めた次女は、すっかり自分らしさを取り戻して昨年からグループホームで生活している。三女の死を伝える時にも、支援者が一丸となり支えてくれた。一緒に乗り越えてきたなと感謝が溢れる。支えてくれる人の輪を、三女にも作ってやりたかった。間に合わなかった。
次女が、三女のお骨に向かって
8階から飛び降りてさ、生きてたら頑張ろう。とか、願掛けてたんじゃないの?こんなに小さくなって。何やってんの、あんたは。
と叱咤する。彼女らしい。
コナンみたいに、擦り傷じゃ済まなかったでしょ。もう、みんなの神様になって守ってね。
今日はシフォンケーキと胡桃ゆべしをお供え。