言葉と服は、似ているね。




それ自体が好きだから


そういう人に見せたいから


気に入られたいから


だってデートだから


便利


機能的


よくフィットする


センスがいい


エリートみたい









趣味や趣向、


ぬくもりや安心感、仲間と…自分のために、


体つきや人柄をきれいに、威厳的に、かわいらしく、かっこよく…など他人に見せたい自分にするために、


選ぶ。


場や関係性に合わせて選ぶ。


目的のために、選ぶ。




もしも本当に「本当の自分」オンリーワンの自分

というものがあって

それを見せたいというなら



じゃあ裸でいればいいのか?


でもそれはできないことだし、


見る人の趣味趣向、観念、感覚は人それぞれ。




ただ



なんにしても「本当の中身」

というのは…




服は脱げば(脱がせば)肉体は裸になるが

中身は見えないし、


もしも手術台の上に乗せて

解剖したって「本当の中身」は見えやしない。




服や、外形や、言葉は

「本当の中身」じゃない。


だからそれらでもってして

「ちゃんとわかりあっている」

と思いすぎる必要はない。

思いすぎてもいけない。


そして思われないことに

落胆することもない。




語彙力、表現力だって、みんな違う。


感度や、感性だって違う。


背景も、違う。


読んだ本、方言も違う。


環境が違う。



年間ほとんど暑い国。寒い国。


黒い森に囲まれた山。


青い海に囲まれた民家。


砂漠。


50度になる国。


マイナス40度になる国。



食べ物に恵まれた土地。


日照りや干ばつのある土地。




知らないことわからないこと

見えても「見えない」ところは必ずある。


それをこじあけずに

けれどもか「ある」と思って関わることが重要だ。



誰にでも同じように見えるだろう外側も

違って見えることもあるのだから、


同じように見えるからといって

「同じ」だと決めてしまうべきじゃない。




  


白い服を着ていたらみんな医師だということもないし


黒い服ならみんな葬儀に行ったわけでもないのに



時々、「そうだ」と人は確信的に思い込む。




いったんそうなると、なかなか他の情報が届かなくなる。受け付けなくなる。




ボロい服を着ているから


くさいから


貧乏なんだ、とか。




へんなしゃべり方だからおかしいとか。





それらが整合することもあるかもしれないけど

は、確率で、たまたまというだけであっても、

人は信じこみやすい。




服と言葉は似ていると思う。