正常な判断


ってなんだろう。


安全で安心して落ち着いていて…

そんな時の判断は正常で、


慌てていたり心が乱れていたり

する時には間違う…


のだろうか。






映画では、



ホラー、サスペンス、アドベンチャー、ロマンス、


【判断】をしなければいけない場面は


極めて窮地の時や悩ましい時。



冷静なのは、探偵が挑むミステリー。




テストで解答する時、


明確なら迷いなく選択する。解答する。




「事項」としては覚えているけれども

正確にどうだったかな?とあやふやな事や、


しっかり計算した…つもりの解答などで


【間違う】。



テストでは

あらかじめ完璧に身につけていさえすれば

間違わなかったのに


となる。

それが受験ならば【失敗した】となる。



しかしテストというのは

他の人が作ったものであり、

【正解】も【不正解】もその人が作っている。


自分ではない人が、作っている。



2+3は誰にでも【5】だ。

それを間違うかどうか。


それから、信号のような【ルール】のような

【社会秩序のため】に人間が作ったものもあって


【平常=問題がない、正しい】だが


【間違う、失敗する】というのは【平常】ではない

出来事になる。


時には【罰】がある。




映画で、主人公は

落ちたり、食われたりしない。


しかしその他の人はたくさん死んだりする。



【その他の人】のようになると


「自分は主人公じゃなかったんだなあ」


という感覚が、無意識にわきおこるかもしれない。



映画の主人公のように、かっこよかったり

美人だったりしないし、


「どうせモブだ」


のような意識でいたりするかもしれない。



だから意識的に

「自分の人生の主人公だ!」なんて台詞が

出てくるのではないだろうか。





けれども、本当のところは、


みんな主人公でもモブでもないし、


【選んだり、決断したりする時】


正解が決まっているわけでもない。





本当に差し迫った時


があるならば、どうしたって


【落ち着いて冷静に判断する】


のは難しい。



でも、


そのときにはそうしたつもりでも


あとになって「ああ、やっぱり間違った」と


誰しも思ったりするものだ。




知識、記憶は時間を逆行できるけれど、


本当の時間は、決して逆行することはできない。



だから、【過去】に【必ず正解がある】


つまり、時間の枠でない正解のあるもの

という人間として認識したルールに対して

「誤答した」と無意識で考えるから

「ああ、やっぱり間違った」と悔やんだりするのだ。



(1たす2は3、というような。

ただそれはルールにのっとった場合で

生活に即した了解の中で計算する人にとっては

まったく意味が違ってきたりすることもある)






鹿が、

右に跳びはねれば助かったのに

左に跳んだことで猛獣に捕まって食われたら、


「間違った」と悔やむだろうか。


わかりようはないけれども、

(人間のような)過去というものを

基本的に持たない生き物は


(過去の失敗で怯えるとかの反応は、生きるためのものだから)



失敗した!自分が悪い!


とかは考えないだろう。


そういった客観的な思考というか

自分でないなにかに(人間はどうしてもからんでいて離れることは不可能だ)主軸を持つことはない。








それから




とても難しいことなのだけれど




「神様、おゆるしください」

というのが、

私には、あくまで私にはだけど


結局「逃げ道」なのではないかな

と思われてしまう。


その、逃げ道をもってして

なければやらないところまでする、ということも

あるんじゃないか、と思うこともある。



信仰によって、より悲痛で凄惨な戦争をしたり…



とても悲しいことだ。。。





しかし





変えられるものを変える勇気を

お与えください


変えられないものを受けとめる心を

お与えください



なにを信仰しようと、しまいとも

どんな宗教にも、

すべからく拒否すべきことでなく

人間にとって大切なことや

指針や励ましや慰めになる叡知がある。




よい道のために、心にとどめておきたい。