そうなんだよ

心の中の深いところって面倒くさい。
情報という表層に流される現代人は、

薄暗いわかりにくいところはみたくない。
そんな余裕がないのだ。

だから、

言葉面の、それもできるだけ薄っぺらい文言で済ませる。それは野獣にかえるのと同じではないか。

知恵が欲しいと自らすすんで得たはずが、
知恵があることを恐れて捨てたいと言っている。

AIが賢くなって、自分の頭や心の代わりになってくれるだろう。
しかしそのシステムは、ソフトもハードも、誰が考え作るのか。

それも人間なんだ。
人間がいなくなれば、人間の世界はまた崩壊していく。それを望むのは今の人間であり、やがて繰り返すんだろうか。



ごはんは何が食べたいか?

という会話は面倒くさい。

だから

ごはんが食べたい、と言う。



それは、より高尚という意味での
抽象表現ではなくて、

思考拒否、
コミュニケーション拒否からくる
ただの「記号」だ。


こうした小さなひとつひとつの在り方を積み重ねて、


現代人は形骸化している。




LINEは元々、
災害で連絡がとれるように、という思いから出発したアプリらしい。

しかし、この場合の

連絡を取る

というのは、

手旗信号(モールス信号か)、
セリなどのような手段に近い。

簡便化した記号はわかりやすいが
細密ではない。没個性だ。


ここに安心感をもつのは、
深奥を含めた個人と対峙することは大変なことだから避けたいという思いがあるからだ。



個人社会は、

より「個」の関わりを嫌う世界だ。

嫌個だ。

形骸的に話すことが推奨されている。



生身のまま、電気信号の世界には入っていけない。追いつかない。体を捨てて、自らAIになり、他の何者かに動かされて生きていく。

誰ともアクセスしなくなったとき、エネルギーが枯れて消える。私たちはひとりがひとつのニューロンとして存在しているようなものに今やいつのまにかなってしまっている。
自らなったのか、させられたのか…
いずれにせよ、
不要な者は消え失せるのみだ。


そんな世界であることを、望んで迎え入れている。構築している。自らが。



本当はね、


体がプラスチックになってよくっても、

大切にしたいのは、その中の奥の奥にある、

あたたかい心なんだよ。



こじあけてみたって、見えやしない。


だけどきっとある。



でももうみんな、


マッチ売りの少女がマッチを擦ったところで


「ライター持ってるから要らないよ」


と行ってしまう。


もう、マッチ売りの少女も、

本当に欲しかったものがなにかもわからない。





最後のマッチを擦ったところで、


優しく笑う家族と過ごす夢を見ることもない。








おはよう、と言えば正解で、


おはよう、と言わないのが不正解。




ありがとう、と言えば許されて、


ありがとう、と言わなければ悪いやつ。

 


現代人は、形だけに支配されている。