以前にも同じようなことを書いたと思うのですが、ひさしぶりにコチラにもう一度

書いてみたいと思いました。


今、教育ということの中に学習、勉強ということの占める割合はどれくらいなのでしょうか?

正直な話、私なんか高校を終えるまでは、毎日勉強に割く時間が絶対的に多くて、夜中に友達とでかけたりするヒマはありませんでした。

家庭環境がどうであれ、義務教育の間はとにかく勉強しないと世間に出て、普通に暮らすのに困るのではないでしょうか?

いい学校に行くとかなんとか言う前に、掛け算や割り算ができない、漢字が読めない、簡単な英語が書いたり読んだりできない、それはもう決定的に人間の世界を狭くしますよね。


教養とか知性とかではなく、生きていく術としての知識は絶対に中学までは懸命に勉強しないと身につかないと思うのです。

勉強、勉強といってはいけない、成績だけが全てではない、得意なところを伸ばしてやればいい、とはよく言われますが、程度問題ですよ。


子どもが巻きこまれる事件が起きると、私はいつもそんな時間に子どもが外で何をしているんだ、勉強してたら、そんな時間はもう疲れて寝てるだろうと思ってしまいます。

本来勉強とは、いい高校、いい大学に行くためにするのではなく、生きる力をつけるためにするんです。


親が子を育てるひとつの規範は、みんながしていることを我が子はできるか、という点にあると思います。

みんなが勉強しています。

あなたの子どもの友達はしていなくても、世間のみんなはちゃんときめられたことを学んでいるのです。

障害や病気が無い限り、しなさいといわれることができないのは、しないからです。


私は勉強しない子は嫌いです。

何故かというと、彼らはズルイからです。


教育は荒廃などしていない、親切になりすぎただけだ、という人がいます。

そう、みんな親切です。

やりたくないことはしなくていい、したいことを一生懸命やりなさい

学校は勉強だけの場ではない

できなくてもいい、君なりにがんばればいいんだ

子どもを成績だけで、点数だけで評価してはいけない


いや。

敢えて言う。


勉強しない子はだめ。

何と言っても、学生の間に勉強しないのはろくでなしだ。


まともな大人になれば、ああ、あの時もっと勉強しておけば良かったと

ホゾを噛まない人はないでしょう。


「学問の厳しさに耐え炭をつぐ   山口誓子」


この句を父に教わったのは算数が分からなくて泣きながら宿題をしていた小学校三年生の時でした。

学ぶことは厳しい。

優しくはない。

それでもその山を登らずに人になることはできない。


父母がそのことを実感せずに、子育てなどできるでしょうか?

小学生、中学生、高校生の本分は勉強です。成績ではなく学ぶというそのことが大切なのです。

その当たり前のことを言う人があまりに少ない・・・ように私には思えるのです。