これが二番目に書いた記事。

自分の時間がほしい、という人が私の周囲にもブログの中にも多くて。

もうひとつ多いのは「本当のじぶん」というフレーズですが、

どちらも漠然としているところが似ていると思いました。


今、子供の手が離れたから、ノンキなことを言ってると思われるかもしれません。

真っ只中の人間には、こんな美化された思い出から得るものなどない、と思われるかも。


人間は自分のしていることを自分がやっているんだ、やらされているんじゃない、と意識しない限りは、いつまで経っても、たとえ子供の手が離れても、夫や親やまたまた孫や病気や、と自分の時間を持っていかれるものは沢山、死ぬまであるのです。

子供さえ大きくなれば、と思っていては何もできません。

子供は邪魔者ではないのです。あなたを阻むものではありません。

あなたの邪魔をしているのは他者ではない、自分なのだと気づいたところから全てが始まると思います。



木の実や花や、小さな虫や・・・・子供が小さい頃はほんとに身近にありました。

子供から手が離れるとともに、そういうささやかな、けれど、美しいものたちとのご縁が薄くなって。

残念なことですね、これから、またそういうものたちとのおつきあいを始めたいものです。


木の枝を拾ってきて、ほんとに小さな小さな、それこそこおろぎさんが座れそうな、ベンチや椅子を作ったことがあります。紙で作ったちっちゃな帽子を載せて「忘れ物」というタイトルをつけたら、子供たちが奇想天外なお話をこしらえてくれたりしたものです。楽しかった♪

ああいう遊びも再開したいものです。


長い夏休みは、私もラジオ体操をして、市民プールで泳いで、読書感想文も書いて、絵も描き、工作も作ったんですよ。

勿論、子供の、ではなく、私の、ね♪


子育てで、自分の時間がない、という人もいらっしゃいますが、どんな時間も私は全部自分の時間だと思っていました。美容室に行きたい、エステに行きたい、ひとりの時間がほしい、と言うのはとてもよく判ります。

本当にそうしたかったら、人間はどんなことをしてもするものですよ。

それと、幸いなことに私には夫がおりましたので、子供をみていてもらって、美容院に行くことはできました。

どうしても、一人で外出したければ夫に言えば子供をみていてくれたでしょう。

しなければならない私の実家の用事も、夫がいたから子供を預けてすることができました。

夫は子育ての大切なパートナーでしたよ。


自分の時間って何かしら?


本当に辛いのは、長期入院を余儀なくされている沢山の人たちだと私は思います。

自分の時間がほしい、と彼らは皆切実に思っていることでしょう。

余命を宣告された人たちもそう。


子育ての時間は、その真っ只中にいる時から、私には貴重な自分を育てる時間、それと、自分が親にしてもらったことを再確認するまたとない時間でした。

素晴らしい小児科の先生に出会って、子育てこそ自分育てなのだと教えてもらったのも大きいですね。


子供は必ず一日に一度、ハッと喜ばせてやりなさい、と父に言われて、子供を喜ばせるということが実は自分を喜ばせることなんだ、と気がつきました。

お菓子作りもできるようになったし、裁縫も、編み物も、そして、お料理も、みーんな子供たちがハッと喜ぶ素になり、また自分が楽しく暮らす大きな要素になりました。


私は、子供が大好きでかわいくて、この世でわが子に恵まれたそのことだけで、まあ、殆ど充足していました。

子供がかわいい、という大きな真実が、その後の私の生き方を決めてくれたところがあります。


自分ひとりの時間が欲しいと思うなら、這いつくばって、爪から血を流しながら掴み取ったらいいんですよ。

欲しい、とは、そういうこと。

真剣に欲してもいないものを、いじましく、欲しいなんぞといわないでもらいたいな。


私ね、子供に手がかかった頃、そりゃあ、しんどかったけど、寝る前に「あー、子供と一緒で、楽しかった」と思わない日はなかったです、ほんとに。義務感とかじゃなかったなぁ、楽しかったもん♪


都会の中のオリーブが、やっとつけた小さな緑色の実をみながら、遠い日のことを楽しく思い出し、

子育てこそ、誰にもできることではない、大きな神聖な、そして喜びに充ちた仕事なんだと思いました。