井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る
後半は後付けらしく空の蒼さ、深さ、色々バリエーションがあるようなのだがとりあえず置いておく。
私は割と好きな後付けなのだ。
東大生、東大卒を筆頭に高学歴にはついてまわる世間の妬み嫉み。
勉強できる奴が社会で成功するとは限らない。
勉強しかできない。
などといつの時代も言われる。
全くその通りだと思う。
未だに成功者の理想型というのはなく、多種多様。
ただ、井の中の蛙…という言葉を見るたび思う。
学問で井の中の蛙にすらなれなかった、空の深さを知り得なかった哀れな蛙は大海に出て何を知ったのかと。
哀れな蛙たちは声高に叫ぶ。
「海は広いのだ!井の中の蛙、お前は狭い世界しかしらず、固執し、出てこない、臆病者の世間知らずだ!」と。
哀れな蛙たちは確かに知っているのだろう。大海は果てしなく広いと。でも彼らもまた知らないのだ。どれほどの広さなのか、どれほどの深さなのかを。大海のすべてを把握するとは全知になるということ、そんなもの無理であろう。
人が一生かけたぐらいではカバーできないほどの広さだ。井戸ですら人は最深部まで辿り着けない。
大海が一生涯では無謀なほど広いことを知る…結構なことだと思う。井の中の蛙大海を知る。
その上で取捨選択、全知は無理だから再び井を作り直す、可能なら少し広く作り直そう。
学問では深く掘れなかったとして、大海を知ったとして、ビジネス、芸術、スポーツ、なんでもいいが次の狭い世界にやはり舞い戻るのではないだろうか?
大海のポツリと作られた井戸を結局、深く深く潜り探し求めるしか道はないのだと、生涯かけて空の深さを知るのだと。
死を目前にして「ああ、なんて深く、広いのだ。私の生に意味は果たしてあったのか?それすらわからない。」と気がつく。
と思います。
果たして世の「大海の広さを知る蛙」はいつ結局は広さを知ったところで無知に変わりなく、我々に可能なのは再び井戸に篭り、下へ下へと掘り下げていく、空の深さを知ることだけなのだと気がつくのだろうか?
勉強しかできない?何が問題なのか?
そもそも東大生程度が勉強しか…と言えるほど勉強していると勘違いしているのが既に勘違い。
大海を知った気になっているが矮小な井戸を開いて少し広い井戸を大海だと勘違いしたというオチ。
結局何も分かっていない。
それが大半ではないか?
学問の深さを勘違いしている。
東大程度を最深部だと勘違いしている。
地球上の歴代の天才たちが何百年かけても一分野すら最深部へは到達し得なかった。
たかだか人生20年では井の中でイキり散らす資格すらないのである。
東大生、東大卒の段階で掘り進むのを止めて、大海に出た気になって広く浅く生きてる人間が大半だ。
東大卒も結局は大半が井の中の蛙ではなく、大海の広さを知った気になり、勘違いして、空の深さを知らなかった蛙に過ぎない。
本当に何か一つしか出来ない、それを何十年と続けた井の中の蛙は空の深さを知り、絶望し、空虚さを感じながらも、卓越した能力を持っているはずだ。
無能であるはずがなく、飽きて畑違いの他の井戸を掘るのも常人より何十倍も速い。
大海を知るというのは不可能だ。
大海が広がっていて、広すぎてよくわかりません、、、が正解。
だから我々の選択肢は戻って深く掘り進むこと。
難関大卒だろうがなんだろうが、大海の蛙に迎合した彼、彼女らはまだまだ序盤でしかない深く深く掘り進む作業を放棄したのだから他所の、つまり東大卒は勉強ばかりで使えないと騒ぐ、自称世間をよく知る彼らと同族なのだ。
そこで大海を知って、また次の井を掘り始めた人は未だ最初の井を掘り進めている人を井の中の蛙と侮るだろうか?
よく世間知らず、井の中の蛙と私はよく言われるのだが当の発言者だけに留まらずどの分野の人であれ、全ての人が自分の周りしか知らない井の中の蛙でしかない。
あとは深いか浅いか。
大海を知っている気になっている傲慢な奴より、自らの狭い井戸を正しく把握している奴の方が優秀に決まっている。
そう思うのだがどうだろうか?