ハリウッド映画「ジョーカー」(2019年)をNetflixで観ました。これまでに3度は観ているんですがやはり凄い映画ですね。この凄さはもちろん主演のホアキン・フェニックスの演技によるものです。ホアキン・フェニックスは2000年の「グラディエーター」で主演のラッセル・クロウに劣らぬ演技を見せ存在感を示しました。また、彼の兄は1986年公開の「スタンド・バイ・ミー」でやはり評価されたリヴァー・フェニックスだということをのちに知りましたが、リヴァーはマスクもオーラも共演のキーファー・サザーランド(「24」のジャック・バウワー役)を完全に食っていました。

 

  ホアキンは役作りのために体重を82kgから58kgまで減量し、彼の演ずるジョーカーの狂気はとても演技とは思えないほどのリアルさで、彼はその年のアカデミー主演男優賞を得ています。映画終盤の民衆の暴動の場面では1970年前後の全共闘の時代を思い起こしました。そしてその狂気は一連の学生運動の事件の末期に発生した連合赤軍事件を彷彿とさせました。共通する空気は「被抑圧者の逃げ場のない狂気」ということですね。

 映画「ジョーカー」の舞台は架空の都市ゴッサムシティです。(場面はニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコが混在しています) いうまでもなくバットマンの活躍する街で、映画の中ではのちに成長してバットマンとなる少年ブルース・ウェインが登場しています。ご承知の通りバットマンのブルースは街の「善」を守るために「悪」と闘う運命にあります。

 

 さて、ここで「善と悪」のふるい分けがどうなるのかが問題となります。「持てる者」にとっては安全と秩序こそが善であり無秩序は悪ですが、「持たざる者」にとっては生存できることが善であり生活の困窮が悪ですから場合によっては暴力も辞さないという論理が生まれます。かくしてジョーカーことアーサーの怨念は権力にも庶民にも牙を剥く鬼(デビル)と化します。

 映画「ジョーカー」ではこの問題にも踏み込んではいますが提起までに留まっています。差別と貧富の差は病めるアメリカの深刻な問題なのです。さて、こんな風にバットマンの世界に風穴を開けてこれからどんな映画作りをするのでしょうか。一方、日本においては登場人物の設定などとてもこのような映画を作ることはできないでしょうね。