揺れてジョバンニ | オクノスタイル

オクノスタイル

福岡を中心に、オリジナル曲を歌ったり、語りと即興音楽のライブをやったり
写真を撮ったり、物書きしたり

日々の様々を自分目線で書きつらねてます



朝だ

呼ばれた気がして、窓をあけた


最近いよーに眠くて、もう目が、手でムリヤリあけないと開かないくらいだったけど


いったい何時なんだ、何時ってなんだ、っていうか、ここどこだ、みたいなくにゃくにゃになりながら、とりあえず写真を撮る


徐々に
最近雨続きで、青空をあんまり見れてなかったことを思い出す

目の前は空き地で
地面は、深くぬかるんでいた


これは
世界の終わりなのか、始まりなのか


そんなときに、こんなくにゃくにゃでふがいなし


だけど、今思い返せば

わたし、ここに何しにきたんだっけ?ってことを思い出していた気もするのだ


性別とか、年齢とか、仕事とか
様々なわたしを取り巻くもの

身に付けたもの、それより以前の自分が、いったい何しにこの世界へ来ようと思ったのか


しかも、そうそう、このためだった!と思い出した気がするのに


もう、忘れてしまった


寝ぼけてるうちに、二度寝しちゃったからなあ




数ヶ月前から、由布院に行きたくて友人と計画していた

ひょんなことで知り合った、日本画家の川村愛先生の個展が、由布院駅のアートホールで8月に1ヶ月間開催されると聞いて、行きたい!と思ったからだ


実は同じ大学のちょっと上の先輩であった川村先生(めっちゃ嬉しかったw)


焼箔という手法で描かれた抽象画が特に大好きで
作品を拝見すると、その手触りのようなものに自分が吸い込まれていく感覚をおぼえる


微細な化学変化と、繊細で大胆な感受性

時間と空間の重なり

融合し、また変化し、形をかえていく中での今ここの、「見る」という見る側の行為との関係性



先日、福岡アジア美術館で展示されていたのを見に行って、やっぱ見飽きんわーと思いながら帰ってきた





先日、太宰府天満宮へいったら、雨の音と蝉の声がしぐれて、境内を満たしていた

わたしは、透明になった気持ちがした

わたしなど、そもそもないかのように
音は降ってきていて


でも、この音は、わたしの耳がなければ、音にはならないという

振動を、わたしは聞いている
聞くものがいなければ、聞こえない
聞くものがいるから、聞こえる

不思議な話だ


その音の中から、柑橘系の爽やかな匂いがした

拝殿横の橘の木に、花が咲いていた

近づくほどに、匂いは濃くなり、雨のせいか、少しだけその匂いにとろみを感じた




幾つか前のブログで、わたし自身に芯がなく揺れていて、表現に切実さを感じられない、と言われた話を書いた

その記事のコメントで、共感するのに必ずしも切実さは必要ないですよ、といった応援をいただいた


このお二人の言葉は、すごく嬉しかった
わたしのために発されたものだからだ
(お二人は、名前も反転していて面白かったw)


今、朗読ライブ「銀河鉄道の夜」の練習に入ってるんだけど

演出の友人から、わたしがやるジョバンニは常に揺れ続けて欲しい、と言われた


なーんだ
揺れていていいんだ、と思った


わたしだからやれることがある

みんなそうだ


みんな、自分だからやれることがある





由布院行きは、大雨の影響で、泣く泣くキャンセルした

一週間ずらすか、と思ったら、その間に緊急事態宣言がでて、あー(*゜Q゜*)、となっている


頭のなかでは、ゆふいんの森号に乗って、温泉入って、川村先生の絵をみてヒャーッとなって、、、なんつって、もう行った気になるくらいなんだけど


これ、20年くらいたったら、行ってないのに行ったことになってんなwと、友人と笑い合った



わたしは、相も変わらず、わりに大きめな出来事からそうでもない出来事まで、迷って揺れて、もやついたりしている


どうするのが正解か、とつい損得で考えてしまいがちだけど



まあ

気楽に行こうと思っている