今の野球好きな子どもが「イチロー」とか「ダルビッシュ」をどんな目で見ているかということに、ぼくは関心がある。
半世紀前の子どもであったぼくがどんなふうに「ON」や「稲尾」「野村」を見ていたかを、ぼくは自分のことのように(当たり前? でも、ぼくは半世紀前の自分のことはほとんど覚えていないのだ)、わりと生々しく思い出すことができるので、今の子どもと比較検討してみたいのだ。
ここではくわしく書けないが、全然違うと思うのだ。
ナガシマたちは「高度経済成長」とともに現れ、プロ野球という国民的娯楽を開拓しつつ、ヒーローになっていった。子どもたちは彼らを模倣するかたちで野球を覚え、彼らの年俸がふえていくのと並行して自分の小遣い(アルバイト収入)がふえていく経験をした。
引退後も彼らはプロ野球監督・指導者として活躍する。
しかし、日本の経済が停滞し始めたころ、彼らは「老」「病」に直面する。ユニフォームを着たままナガシマは脳梗塞に、OHは胃がんに倒れた。これはヒーローの痛々しい姿でもあったが、一つの時代の終わりでもあった。
そして時代は同じかたちで繰り返すことはない。いまの子どもたちは野球を好むかサッカーを好むかの選択をしなければならない。野球少年になったとしても、彼はバットやグラブを裕福な友だちから貸してもらうという経験を知らないだろう。野球は日本と韓国が世界一を競う時代だ。サッカーもワールドカップにJAPANが挑んでいく。
一方で「格差社会化」が進む。下層の子どもたちには野球もサッカーもないだろう。半世紀前の子どもたちは一つのボール、一つのグラブ、1本のバットを宝物のように扱って野球を覚えた。
たとえば仙台の男の子はどんなふうに野村監督という「おじいさん」と、岩隈、マー君という日本代表投手を見比べて、何を感じているのだろう。
こんなときに、ベースボール・マガジン社から「週刊 プロ野球 セ・パ誕生60年 」の分冊シリーズの刊行がはじまった。
創刊号は「1974」ナガシマ引退、涙の後楽園球場の年である。
同じロスでこちらは韓国YUNAさんが世界一!
フィギュア世界選手権フリープログラムは、真央ちゃんよくがんばったのだが、連覇の重圧からか演技にキレがなかった。頂上対決といわれながら、結果は4位。安藤美姫ちゃんが気迫ある演技で銅メダル。
Kim Yunaはすばらしかった。重圧は真央ちゃんよりも大きかったと思うのに、完璧にやり遂げた。韓国の国民は同じロスでWBCで日本に負けた雪辱をYUNAさんに果たしてほしいと祈っていただろう。それに応えた精神力はすごい。表彰台で涙する彼女につられて、なんでオレが涙するんだ?
ただ、技術点はともかく、芸術点でも、3人のメダリストが真央ちゃんを上回っている評価は,真央ちゃんにとってきびしいものがある。
ぼくの贔屓目から見ると、真央ちゃんの演技が抜群に美しく見える。芸術として優れて見える。それは日本女性のしなやかな身のこなしとか、間の取り方とか、日本のエロスにかかわる領域である。そこが審査員に評価されないとなると、筋骨隆々でガツガツと決めていくロシェットさんが上に行ってしまうわけだ。
いまの芸術点評価法だと、YUNAとの差はよほどのことがないと縮まらない。真央ちゃんは美姫ちゃんにも勝てないだろう。

