2.12  自分の眼で相手のクセを見抜くこと打撃も恋も同じじゃないかな | 短歌&野球

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ぼくのへたくそな短歌と、大好きなプロ野球についての感想を、日記形式でつづります。ぼくの個人的な経験も書いてしまうかもしれません。

NHKで土曜夜9時から「フルスイング」という連ドラ放映中だけど、その主人公のモデルは高畠導宏・元プロ野球打撃コーチである。


すっごく重くて感動的な本を読んだ。


門田隆将著『甲子園への遺言』(講談社 本体1700円)


amazon.co.jp での簡単な紹介は・・・


『甲子園への遺言』は、平成16年7月1日、多くの野球人、生徒たちに惜しまれつつ世を去った、不世出の打撃コーチ・高畠導宏氏の生涯を描いたノンフィクション作品です。


高畠氏は古くは南海の藤原、ロッテの落合、高沢、西村、そして最近ではイチローや田口、小久保など、数多くの名選手を育てたプロ野球界伝説の打撃コーチです。多くのプロ野球選手たちが彼に教えを乞い、30年にわたって第一線の選手たちの技術面と精神面の支えになりつづけました。


ところが、その高畠氏は五十代半ばにして一念発起をします。通信教育で教職の勉強をはじめ、プロ野球球団のあまたの誘いを蹴って高校教師の道を選んだのです。

そして、平成15年春、福岡県の私立筑紫台高校に新人教師として着任します。社会科教諭として教鞭
をふるう一方、野球部を甲子園に連れて行きたいと考えたのでした。諦めや疲労感に支配される五十代に、なかなかできることではありません。

ところが、長年の無理がたたったのでしょう。高畠氏の体はそのとき重大な病気に冒されはじめ……。


こんなに凄い高校教師がいた!──高畠氏はなぜ転身を決意し、そして、そうまでして高校生たちに何を伝えようとしたのでしょうか。



この本は期せずしてThinking Baseball(考える野球)の発達史を物語っている。

高畠導宏は、高校、大学、社会人と各レベルで強打者の評価をゆるぎないものとし、1967年南海ホークスに入団する。ここでも「新人王確実」と期待され、4番野村克也の5番打者となるだろうと思われた。ところが彼のプロ野球人生は暗転する。スライディング練習で肩を脱臼してしまい、また、期待のルーキーであるゆえ、その重傷を隠し無理して出場したことも重なって選手寿命をちぢめることになった。


ノムさんがプレーイングマネジャーとなって、高畠は代打専用で3割をマークしたのをピークに28歳で現役引退。ノムさんの下で若き打撃コーチとなった。これが30年に及ぶプロ打撃コーチ人生の始まりだ。


この本では当時の南海ホークスが「巨人」に対抗するためにシンキング・ベースボールを徐々に開発・進展させていった過程が描かれる。そこが1コーチの評伝を超えて、プロ野球史を刻む記録となっている。まず鶴岡一人監督。彼については別の機会に改めて考えてみたいが、ここではプロ野球に専属スコアラーを導入したことをあげておく。

鶴岡は1954年(昭和29)、尾張久次という野球を見る眼(観察眼)を持った毎日新聞記者を球団職員として招く。相手チームの観察、とくに投手の配球やクセ、打者の弱点や注意点などを調べ上げるという仕事を、尾張はプロ野球で初めて職務として行った。試合前のミーティングで尾張からの細かい情報に耳を傾ける蔭山和夫やノムさんがいた。データ野球のはじまりである。

蔭山選手、ヘッドコーチについても別の機会に改めて考えたいが、南海のシンキング・ベースボールの進展を語るには高畠とおなじ67年に入団したブレイザーの存在が重要だ。彼は二塁手としてベストナインに選ばれたりしたが、ホークスとしては彼の「頭脳」をあてにしていた。70年、野村PM誕生とともに引退しヘッドコーチになる。当初はノムさんもブレイザーの指示をあおいで「考える野球」をPMとして吸収していったのである。


ブレイザーのシンキング・ベースボールを当時、南海にいた江本孟紀は次のように解説する。

「同点で2死満塁。カウント2-3.投手がきみなら、どうするか」とヘッドコーチのブレイザーがエース江本に問う。

「イチかバチか、自分の得意球を投げ込むしかないでしょう」と江本。ブレイザーは言う。

「打者と勝負しなくても、チェンジにする方法がある」 みんながクビをかしげる。

「正解は2塁に牽制球を投げることだ」

この場合、3塁走者は牽制球を警戒している。2塁走者はもっとも無警戒だ。その心理を突けとブレイザーは言ったという。これは「考える野球」の基本的発想であると、ぼくも思う。


あれ、長くなりそう。ぼくは浜名湖に遊びに行くんだ。ここでいったん中断します。