今回は、今年2月末に行われた埼玉県公立高校高校入試国語の問題について取り上げます。

 もともと脱稿したのは4月だったのですが、発表する場がなく、ここで紹介します。

 

 

 

2024年埼玉県高校入試国語問題

 

 2024年(令和6年)2月21日(水)埼玉県公立高等学校学力検査(高校入試)が行われた。私は、高校入試問題を、生徒入学後、機会をとらえて授業で扱う。この時の問題は全員が必死になって取り組んだものであり、「見覚え」があるものだからだ。そして、テストは「終わったら終わり」ではなく、「その後」が大事だということを語る。また、中学生の時の考え方と、高校での捉え方の違い、発展を示したいからだ。今回は、この入試国語問題について概説し、特に大問3の評論問題と大問5の作文問題について論じたい。これは、埼玉県以外の方々にも参考になると思う。

 

 大問1は小説で、出典は辻村()(づき)『この夏の星を見る』(角川書店)。2023年6月刊行で、内容は以下の通り。「2020年春、コロナ禍で登校や部活動が次々と制限される中、全国の中高生は複雑な思いを抱えていた。茨城県の高校二年生、亜紗(あさ)。渋谷区の中学一年生、()(ひろ)。長崎県五島列島の旅館の娘、(まど)()。それぞれに天文活動で出会った生徒たちは、オンライン会議を駆使して全国でつながっていく。望遠鏡で星をつかまえるスピードを競う『スターキャッチコンテスト』開催の次に彼らが狙うのは――」(本冊「腰巻」に書かれた内容紹介文)。

 コロナ禍中の中学生高校生は、失われた世代と言われる。中止になった修学旅行、部活動の大会、おしゃべりをしながらの昼食時間……。そして、顔にはマスク。奪われた学校生活。だが、本当にそうだろうか。コロナがあったために奪われたものもあるが、コロナがあったための出会いもある。「失われた」という言葉に抵抗感があり、生徒たちの時間が丸ごと何もなかったように言われるのは心外だ。この生徒たちは、コロナがあったからこそ出会うことができ、オンラインで会議し、天体観測を行った(小説中の、(すな)(うら)第三高校の綿引(わたびき)先生の言葉、要約)。

 このようなメッセージ性と作者の熱い志のためだろうか、今年この小説は埼玉県以外でも、東京都、愛知県の学力検査(高校入試)で出題された(問題本文はそれぞれ別箇所)。

 

 大問2は漢字、文法、語順、文章訂正といった知識問題。

 大問3は評論問題で後述。

 大問4は古文で「一休ばなし」。指示語、現代仮名遣い、内容理解問題。

 大問5は作文で後述。

 

 国語の平均点は、58.1点(埼玉県教育委員会発表。なお昨年57.1点、一昨年62.9点。100点満点)である。

 

 大問3は、小川さやか「手放すことで自己を打ち立てる――タンザニアのインフォーマル経済における所有・贈与・人格」(『所有とは何か』中公選書所収)である。なお、小川氏の文と考えは、別の本だが今年の東京大学入試問題国語でも出題されている。

 先進国で捨てられた不用品はタンザニアに輸出され、その地で転売、贈与、等々され、社会の中で循環する。その際、モノは無色透明な物品、商品ではなく元の持ち主のアイデンティティが付帯し、新たな価値を持ち始める。たとえば、すでに使えなくなった万年筆も、文豪の愛用品だったとなれば付加価値を持ち、その所有者が自殺したとすれば「呪われた万年筆」となるように。

モース(1872~1950年。フランスの社会学者、文化人類学者)の贈与論では、贈り物には「霊」が付着しており、元の持ち主の所に帰りたいという意思があり、そのため贈り物には返礼が必要になる。モノには霊があるから、モノを贈られると送り主の魂の支配を受けることになる。例えば恋人からもらった手編みのマフラーは単なる物ではない。

 モノは単なる物ではない。だとすれば、物を買い、法的に所有者になったとしても、モノはまだ元の持ち主に帰属しているといえるのではないか。

 

 この種の、商品とモノ、交換と贈与という内容の評論は、近年大学入試での出題が増えている。たとえば、2019年、関西福祉大学で松村圭一郎という文化人類学者の『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)の一節が出題された。コンビニやファストフードでのお金と商品とのやり取りは交換であり商行為だが、結婚式でお金を渡すときには祝儀袋や袱紗(ふくさ)といった特別な演出を施すことによって贈与(贈り物)となる。バレンタインチョコは買うときは商品だが、贈るときは感情のこもった贈与となる。このように、商品交換と贈与は異なる行為である。

 また松村氏の『文化人類学の思考法』(世界思想社)の中には、やはり、モースを引き、「ギフト」という語には「毒」という意味があり、何かを贈与されるとは、相手の魂の何ものかを受け取ることであり、これを長く留めておくのは危険だ、と述べられている。自分の交際相手が元彼(女)のプレゼントしたアクセサリーをずっと身につけていたら気分が悪い。贈り物は怖い。とも述べている。

 

 松村氏は近年の大学入試頻出作家であり、早稲田大学、近畿大学(ともに2019年)等で出題されており、上記の考えは、今年の埼玉県入試問題の小川氏の考えと共通する。そして、上記の文は、本校で使っている共通テスト対策問題集に収められているものである。

授業の問題演習でこれを扱う時、高校入試の小川氏の文を補足説明で使おうと思っている。贈り物には霊が付着しており、贈り物は怖い、ということで言えば、第1回共通テスト(2021年)国語の小説問題、加能作(かのうさく)次郎(じろう)「羽織と時計」(1918年)が参照される。主人公の「私」は、同僚のW君から、あることの礼として羽織を、退社時の餞別として時計をもらう。大正時代にあって、いずれも「私」の分にすぎた、立派なものであった。W君に打算や思惑はなく、純粋な行為である。だが、あるいは、だからというべきか、「私」は負担に感じ、アーダコーダと心中、勝手な独り相撲の思いがグルグル回り、結局、その後のW君の家に見舞に行けない。また、田中角栄(1918~1993年、第64代首相)の贈与観も参照される。田中角栄は、金権政治で失脚した人だが、人情の機微に通じた金遣いの達人であった。「あげる」という態度(※付着する霊、魂)が少しでも出たら恨みを買いムダ金となり、「受け取ってもらう」と思わなければならない(水木(みずき)(よう)『田中角栄』文春文庫、等)。

もう一つ、モノは単なる物ではなく、物を買い、法的に所有者になったとしても、モノはまだ元の持ち主に帰属しているといえる、ということで、ストンと腑に落ちる歴史事項がある。徳政令である。徳政令については、以前、一文を草したことがあり、それを紹介するつもりである。昔、「学問のススメ」と称する図書案内を図書館報に連載していたのだが、その一つである。

 

笠松(かさまつ)(ひろ)()『徳政令――中世の法と慣習――』岩波新書

 鎌倉時代後期の(えい)(にん)五年(1297年)世に「永仁の徳政令」と言われる幕府法が発布される。「御家人が売った所領は一銭も払わずに取り返す、借金も払わずともおかまいなし」という、有名な、アレである。

 私が徳政令のことを知ったのは小学生の時だが、借金を踏み倒すのを幕府が公認するという、実に乱暴で不可思議な法であり、しかもそれを、「徳政」とネーミングするという、その感覚が理解不能なものであった。しかし、21世紀の現在、大企業に対する債権放棄や金融機関への公的資金注入(※注1990年代後半、バブル崩壊後、金融再建のため不良債権放棄〈借金棒引き〉や銀行への公的資金〈税金〉投入が行われた)という現象を見てくると、中世の徳政令も、それほど不思議な法ではないという気もしてくる。

 そもそも日本の古代には「商返(あきかえし)」という、一種のクーリングオフの慣習があり(折口(おりくち)(しの)()の説)それが徳政令の起源だという。そして、徳政令の本質とは、「本来の所へ、もとへもどす」ということであるという。その後、この本は、鎌倉時代後期の武士、貴族の精神のうねり、中央と地方との関係、当時の人々の法意識を活写していく。

 以下、私の感想。

 当時の人々にとって、土地を開発するとは、その土地に生命を吹き込み、その地の心霊と交感する行為であった(勝俣(かつまた)鎮夫(しずお)『一揆』岩波新書)。その地に自分の名をつけ、あるいは逆に地名を自らの氏とした。土地=その人、であり、その人(及びその子孫)こそがその地の本来の所有者であった。だとすれば、売買契約が成立し、その土地が人手に渡ったとしても、その地の「本当の所有者」は「その人」(及びその子孫)であり、「本来の所へ、もどす」徳政が行われたとき、それは反対のしようがないものであったかもしれない。

 別の例で考えてみて、養子に出されたAさんという人がいるとしよう。育ての親がいるわけだが、「本当の親」のところへ「もどりたい」と言ったとき、それを妨げることはできない。明治以降、夏目漱石や菊池寛の時代になると、養育費などが問題となり、契約書を交わしたりと、ずいぶんセチ辛くなるのだが、この、「本来の所へ」「もどる」ことを「徳政」というのは、それほど違和感があることではない。

 だとすると問題の立て方は逆転する。

 中世に、なぜ借金踏み倒しの法令が発布されたのか、ではない。額に汗し、自らスキ、クワをふるい、その地に生命を吹き込んだ者よりも、金銭や契約書といった紙切れを持った者が「本当の」所有者と考えられるようになったのは、いつからなのか、と。

                                         ―――2003年10月―――

 

 徳政令の本質とは、「本来の所へ、もとへもどす」ということ。(笠松宏至『徳政令』)

 「贈り物には『霊』が付着しており、元の持ち主の所に帰りたいという意思があり、そのため贈り物には返礼が必要になる。」「モノは単なる物ではなく、物を買い、法的に所有者になったとしても、モノはまだ元の持ち主に帰属しているといえる」(小川さやか)

 古代におけるモノ観は共通するといえるし、徳政令という、現代人には不思議な法の秘密が理解できるのではなかろうか。

 大問5はSDGsに関する作文であった。資料として二つのグラフがある。資料①は埼玉県内在住者対象のアンケート、「あなたは、持続可能な開発目標(SDGs)に関心がありますか。」であり、「関心がある(とてもある、ある)」60.4%、「どちらともいえない」23.9%、「あまり関心がない」9.8%、「全く関心がない」5.9%、であった。資料②は「全く関心がない」以外の人に対して、「あなたは、持続可能な開発目標(SDGs)のどの分野に興味がありますか。」(複数回答)というものであり、「すべての人に健康と福祉を」「気候変動に具体的な対策を」等が回答数が多かった。

 設問は、「次の資料は、『持続可能な開発目標(SDGs)の推進について』、主に県内在住者を対象に調査し、その調査結果をまとめたものです。国語の授業で、この資料から読み取ったことをもとに、『持続可能な社会を築くためにわたしたちができること』について、一人一人が自分の考えを文章にまとめることにしました。あとの〈注意〉(省略)に従って、あなたの考えを書きなさい。」(12点)であった。

 

私は自作の架空作文答案を使い、授業中、生徒に添削させるつもりである。そこで意見交換しながら、資料の扱い方、目のつけ所、文章展開の仕方について説明するつもりだが、ここでは省略する。それより私が思うのは、この作文で次のように解答したら、〇になるか×になるか、減点されるかどうか、ということだ。

 

〈解答例〉資料によるとSDGsに対し、関心が「全くない」「あまりない」を足すと、15.7%になる。自分も関心がない、というよりは、当然誰もが行うべき「善い事」として押し付けられるのに違和感がある。「朝日新聞DEGITAL」(2022年6月19日)によると、多くの企業がSDGs貢献をうたっているが、それを「うさんくさい」と感じたことがあるか、というアンケートに、58%が「はい」と答えている。SDGsは、絶対的な善で、必ず行わなければならないのだろうか?

 

 この設問には、「『持続可能な社会を築くためにわたしたちができること』について」書く、という大前提がある。私の疑問は、それ――出題者の意図、指示――とはズレる。だが、SDGsという「善い事」に対し、SDGsとは何か、なぜSDGsを行わなければならないのか、というラディカル(根本的)な問いを発してはいけないのだろうか。

 というのは、古い話になるが、2008年4月、第二回全国学力テスト小学校六年生「国語B」の問題に、私は違和感があるからだ。そこでは全国の小学六年生の一日の読書時間のグラフが示される。「全く読書しない」21%、「1~29分」約40%、「30~59分」約22%、「1時間以上」約18%である。図書委員たちが「わたしたち六年生の読書時間を増やすこと」をテーマに話し合い、考えを書くという問題である。公表された正答例は次の通り。

 

〈正答例〉家や図書館で一日に読書を全くしない六年生は、約20%もいることが分かりました。読書時間を増やすためには、家での読書の目標や計画を立てたり、学校や町の図書館で調べ学習をしたりすればいいと考えます。

 

 だが、次の解答は、〇になるだろうか、×になるだろうか。

 

〈解答例〉私はほとんど本を読みません。でもそれで別に困ったことはありません。調査によると全く読書をしない人が20%もいて安心しました。そんなに本を読め、読めと言わなくてもいいのではないでしょうか。

 

 国立教育政策研究所教育課程研究センターの解説資料によると、①グラフから分かったことを木村さん(という図書委員)の内容と重ならないように書いていること ②分かったことを基に、読書時間を増やすことについて考えたことを書いていること(傍点滝本) ③八十字以上百字以内で書いてあること、の三つの条件を満たしているものを正答とする、とある。また、評価の観点には、意欲、関心、という項目もあり、それからすると、上記の〈解答例〉は×になるものと思う。しかし、「なぜ本を読まなければならないのか?」という、根本的な――即ちラディカルな問を発するのは不可なのだろうか。

 今度は現代からアジア・太平洋戦争末期の1945年に一気に話は跳ぶ。鹿児島県知覧(ちらん)(ちょう)には陸軍特別攻撃基地があったが、当時、軍による調査があり、特攻兵の三分の一が精神的動揺を抱えていたことが知られている。隊員たちがなかなか本心を明かさないであろう軍関係者による調査でも、多くの隊員が                        

特攻隊に編入されたことに納得していないのである。(吉田(ゆたか)『アジア・太平洋戦争』岩波新書)

 ここで仮定の話。

 前の図書館だよりの調査の数字を踏まえた話し合いではないが、知覧でも軍の調査結果を踏まえて、「皇軍の士気を維持し高めるためにどうするか?」というテーマで話し合いが行なわれたとする。考えられる「模範解答」は次のようなものだろう。

 

〈模範解答〉調査により三分の一の兵士が心理的動揺を持ち、死の覚悟が出来ていないことが分かった。大東亜戦争の意義を思い起こし、天皇陛下の赤子として戦う自覚をもつべきものと思う。

 

 しかしこの時、次のように答えたら、○となるだろうか、×だろうか。

 

〈解答例〉調査により三分の一の兵士が心理的動揺を持ち、死の覚悟が出来ていないことが分かった。その心情は無理からぬものであり、そもそもこのような非人道的な作戦は初めから無理があり、即刻中止すべきである。

 

 戦時中、このような発言をしたら上官から殴打されたに違いない。故に×であるのは間違いないとして、この発言は「本当に」×なのだろうか。いや、そのようなことはあるまい。平和主義を国是とする現在から見てということで、何やら後出しジャンケンじみているのだが、そこで全国学力テスト国語Bの問題に戻ると、その〈正答例〉が実に胡散臭(うさんくさ)いものに感ぜられる。もう一つさかのぼれば、今年の埼玉県高校入試の「SDGs推進」にしても、なにやら「うさんくさい」ものを私は感じる。

(【補足】2008年第二回全国学力テスト国語Bについては、『東書Eネット』拙稿「高校国語マル秘帳」第40回、2017年11月24日、参照)

 

 前記の『この夏の星を見る』に戻ると、この本の最初のほうに、溪本(たにもと)亜紗(あさ)の小学五年生の時のエピソードがある。彼女は学校以外にタブレットを使った通信教育の勉強をしていたのだが、課題提出とともに質問・感想を書く欄があった。普段気になっていた「海の水はなぜしょっぱいのか」という質問を書き、二週間後の返信を心待ちにしていた。すると返信は、「質問、ありがとう。」と始まるのだが、自分が知りたいことに少しも触れていない内容で失望する。いろいろな物質が溶け込んでいる、と書いてあるのだが、「いろいろな」の中身の、どんな物質なのかということ、そして、なぜ溶け込んでいるのか、いつそのような現象が起こったのか、という肝心なことを素通りしている……。「先生」に対して幻滅した亜紗だが、ふと、ラジオの「子どもの夏 電話質問箱」に、「月はなぜ追っかけてくるのか」という質問を投稿する。すると回答の「先生」は、天文学の本質を基に、少し難しい話を、自分も子どものころ疑問に感じ、質問されたことが「嬉しい」という感じで、楽しそうに電話で話してくれるのだった。その先生が綿引先生で、その後亜紗は綿引先生のいる砂浦第三高校に進学し天文部に入部するのだった。

 全国学力テストの読書時間の増加や今年の埼玉県入試のSDGs推進の問題を出題した「先生」は、亜紗の通信教育の先生の仲間だろうか、それとも、綿引先生の仲間だろうか。

 

(【補足】地球環境に対する最大の「害虫」は何か? 人類である。現代文明は肥大化し、地球環境のためには人類が駆除撲滅されるのが最善である。だがこれは、真理であるが現実的ではない。人類の存続が大前提である。そのためには環境問題だけではなく、貧困やジェンダー問題も解決せねばならず、そのため、SDGsは国連採択云々にかかわらず取り組まなければならない課題である。しかし、当然の「善い事」として語られると、全引の「朝日新聞DIGITAL」のアンケートのような違和感を多くの人が覚える。以前、ある作文・小論文で「SDGsの布教(ふきょう)」という表現を見たことがある。どうもこれは、「SDGsの普及(ふきゅう)」を間違えたようなのだが、言い得て妙だと思った。いわば「SDGs教」とでもいうべき宗教化しているという無意識の現れではないかと思ったのだ。)