先日、5upよしもと という劇場で漫才をみてきました。よく落語は観に行くのですが漫才は10年ぶりぐらいです。個人的には講談という芸が好きなんですがマイナー過ぎてあまり会が少ないのが残念です。劇場に行って、ただ笑うだけでなく、その人物や話芸の勉強もさせてもらっています。なぜこの人は面白いのか、なぜ爆笑をとっているのか、話のテクニックを自分なりに研究して楽しんでいます。昨日は7組の出演。

バンビーノ(誰やねん)、テンダラーが面白かった。テンダラーはよくTVに出ていますよね。一番うけていたのはテンダラー。ベテランだし経験もあるんで面白くて当然といえば当然かもしれないんですがベテランでもつまんない人はなんぼでもいるし、ほんまに芸人?という人も中にはいます。なにがちがうか?やはり根底にあるのはプロ意識でしょうか。ネタや話の流れ、動きに一切の無駄が無い。相当練習をしないと

あの域には達しないんだろうな、と思いました。そのプロ意識の根底には「自分達はお笑いのプロ、劇場にまで足を運んでもらって笑って帰ってもらって自分達はなんぼ」それを強烈に感じました。(漫才を終えた後の背中で語っていました。一仕事を終えたと。愛想を振りまきながら、手を振ったりして舞台袖に帰る芸人ほどいい人なんだろうけど経験上、つまんない)笑わすこと。それが芸人の責任であり使命であるわけです。そのためにネタをつくり、練習をするのです。残念ながら昨日の出演者に「ほんまに練習しているんか?」というベテラン芸人もいました。学校の先生に置換え考えましょう。教員の使命感、責任感とは?私が考える教員の使命、責任とは「目の前の子どもを良い方向に導く」「自分の発言、行動、指導で目の前の子どもは良いようにも悪いようにもなる。それだけの責任が教師にはある。あなたはそれを自覚しているかどうか」そう言ったプロ意識があるかどうか。 面接において責任感、使命感があるかどうかは主に志望動機にあらわれます。子どもが好き、教えるのが好き、子供と成長したい、自分の特技をいかしたい、憧れの小学校の先生のようになりたい・・・・うえの内容ではもの足りないことがわかると思います。教員は大変な仕事です。漫才師は舞台という本番で笑いをとるために日々、ネタをつくり練習をする。それが使命であり責任。先生は学校という本番で子ども達を導くために、日々悪戦苦闘する。休みも暇もあって無いようなもの。それが使命であり責任。そういった覚悟があるかないかが責任感、使命感のあらわれだと考えています