Back in the day pt.1 | USUオフィシャルブログ「U N' I To You」Powered by Ameba

Back in the day pt.1

たまには楽曲以外で昔話でも。

適当に緩く回想してるから酒のつまみに読んでみて下さいw

長いよーw


余りネガティヴに振り返るのは好きではないが、思い出に浸るのは嫌いじゃない。今の立ち位置や感謝の気持ちを思い出させてくれる。



奇しくも俺にも歴史が出来て、振り返る道が出来ている。


色々な思い出は底なしにあるが最終的には、これは俺のLIVEの話。

LIVEに対する話。最終的には。ねw


俺が一番最初にLIVEをやったのは

旧JUNK BOX

旧と言っても旧のまた旧というか。

今は専門学校のSHOWの跡地に

カミーノ古町というテナントビルがあった。

そこの最上階にJUNK BOXがあった。

そこが一番最初のLIVEをした場所。



俺がラップをやり始めたきっかけは

仲間がDJスクールというモノに通い始めたからだと思う。

スケボーやったり一瞬サーフィンやったりはしたが、それはあくまで周りにスケーターがいたり、その延長でサーフィンやってる奴がいたり。

俺はその地元の'流れ'のままに、スケーターブランドを纏いVANSやDCを履き、所謂'丘'サーファーたる格好をしていた。

中学3年からラップに出会うまでの俺ね。

高校に入学して間もなく

仲間達がDJスクールに通い始めた。

今では俺の相棒であり、大先輩であり、新潟の先駆者。

DJ YOSHIIさんのスクールだった。

一瞬

蚊帳の外に居る気分になったのを覚えている。

毎週の様にクラブに行っていた仲間たちが輝いていた。

羨ましかった。

仲間の家に行くと常にタンテが回っていて、聞いた事のない音楽が流れていた。

煙たくて、暗くて、重い。

まぎれもなく、フレッシュで衝撃時な音楽だった。

スケーターかぶれの俺にとってはRockこそ音楽だったからだ。

ラップを志したのはその年の12月。

仲間が小さなBar(エマニエルというDJ Barで通称'エマ'と呼ばれていた。)で回すから遊びきなよ。って言われて遊びに行く事を決意したんだ。興味もあったし、とにかく平凡な毎日から抜け出したかった。


当時、新潟の伝説的なヒップホップクラブ

インスリーズというクラブを仲間から出る話で聞いてはいたが、勝手なイメージでそこは避けていた。なんでかって??怖かったからw

アナログのジャケで見るイカツイ黒人みたいな人達がいるって勝手に思ってたからねw

だから『小さなDJ Bar』と言われ少し『そこなら』と安心したのを覚えてる。何より誘われた俺は嬉しかった。イケてる仲間の仲間入りした感覚だった。

(あ、高校生がクラブなんてダメでしょって話は置いといて下さいね。当時は当たり前だったし、もう時効ねw)

どんな格好で行っていいかもわからなかったけど

Galeやタウカン(俺が着ていたサーフブランド)の服を着て行ってはいけない。ってのは何となく分かってた。

だから俺なりにB-boyファッションというのを必死に調べて街に出かけた。

僅かな情報で辿り着いた店は

ABC STOREという店だった。

そこは圧倒的にオサレでクールで輝いていた。

店員さんも強烈にB-boyだった。

その店員さんが出す空気に圧倒され、なすがままにイケてる服を買ったのを覚えている。

その店員さんと仲良くなるのはだいぶ後の話。

話を戻そう。

いざ土曜日。

学校が終わり定番の溜まり場

駅中のSAISON前。

そこには沢山の高校生が放課後の暇つぶしの為に集まっていた。

不良の先輩。

不良の知り合い。

ギャルの先輩。

タメの女子。

顔が広いタメの知り合い。

俺は居場所は無かった。真面目では無かったけど特に有名な不良でも無かったし、人見知りも激しかったから。

友達なんか最初いなかった。

DJスクールに通ってる仲間はいつの間にか知り合いが増えていった。

だから俺はきっとDJ2人の後ろにいる静かな奴。

に映ってたんだろうな。

いつもの苦手な交流場所を抜けてバスで家に帰った。

そして、初めてクラブに行く夜を待ったんだ。

確かOpenは20時くらいだったような。

買いたてのBな服を着て、ティンバーのヌバックを履き、ぎこちない歩き方で家を出た。

母ちゃんからは

あんた、なにそのダボダボな服!!

帽子も田中邦衛みたい。

と言われたのは今でも覚えている。

田中邦衛みたいってのは当時ツバ付きニット帽が流行っててね。

アメリカのラッパーはみんな被ってた。そこからぶっといドレッドを惜しげもなく出していた。

誰が田中邦衛じゃ!w


バス停に着いて数分。

DJ JACKY(バーチャルファイトというゲームの使うキャラがジャッキー)とDJ NOMO(野茂英雄のベースボールシャツを着てたから)がバス停に到着。

ん~。オサレだ。

'丘'B-boyの俺とは訳が違う。

ごっついファーストダウン

派手派手な迷彩ジャケット

ん~なんだこれw

恥ずかしくなったなーw

でも2人が一言

『似合うじゃん!!いいね!』

俺は少し自信がついた。

バスの中では

DJの2人が話す会話に耳を傾けていた。

バスが古町について、すぐにエマニエルに向かう。

ドキドキ

ドキドキ

慣れないティンバーのブーツが重すぎる。

踵も擦り切れそうだ。

ただ、その重さが

ヒップホップ。

ってのは分かってたんだ。

いざエマニエルに到着。

開けた瞬間。

暗い。

爆音。

煙たい。

あーこれだ。この感じだ。

これがヒップホップだ。

DJの2人は色々な人と話している。

俺は案の定1人になった。

予想はしていた。

丸テーブルとイスが置いてある場所に陣取り慣れないカクテル(ラムコーク)を飲みながら静かに周りを眺めた。

同じスクール生と思われる、やたらイケメンで高身長のDJが回している。

孤独を感じつつも、知ってる曲がかかれば少しだけ首を振っていた。

そうそう。俺も立派なBだ。ビビるな。

そうこうしてるうちに

背の高いヒョロっとしたBが話かけて来た。

軽い感じだ。

『俺もDJやってんだよね。誰と来たの?』

俺は今日の出演者と仲間で、一緒に来たと告げると

彼も同じスクール生だった。

意気投合まではいかなかったが一杯乾杯する事に。

彼はおそらく慣れない俺に曲の詳しさを自慢したかったんだろう。それも何故か心地よかった。知り合いが増えた感覚。安心した。

俺が知らないアーティストの話や、これから仲間達とラップグループを組む事を教えてくれた。俺はその言葉尻にリアクションを取った。

酒も回り、大人の時間が近づく。

『おはよーございます!!』

圧倒的カリスマの登場。

DJ YOSHIIである。

Poloの服にGuess(多分)のジーンズ、ドレッドヘアー。

ドアからバーガンまで、みんなに声をかけられている。

そこでクラブの挨拶は夜でも

おはよーございます。

と知る。

確かスクール生を中心に初めてのイベントというのが、その夜のコンセプトだったと思う。

ダンサーで有名なMIYAJIMAさん。

ラッパーのD-EARTH(しかも高校の先輩)さん。

俺のデザインをやってくれてるKSK君も当時はダンサーとして紹介された。


色々な人を紹介してもらえたが、DJ YOSHIIだけは話す事が出来なかった。

常に周りに沢山の人が集まり、俺みたいな小僧が近寄れる人では無かったからね。

そんなこんなで人生初のクラブは幕を閉じた。

なんとなくしっくりこなかった。

それは完全に大人の世界であり、プレーヤーが目立ち、俺みたいな俄かBが遊べる場所では無かった。と、勝手に思い込んだのが最初の印象だった。

ただ、引っかかる事が一つ。

一番最初に話かけて来たDJ

『今後ラップグループを組む予定なんだ』

って事。

ラップ???

日本人で???

その夜緊張しまくってた俺が一番興味が湧いた言葉だった。

Wu-TangやBoot camp,Das EFXなどを無理やり感満載で聞かされてから
Mobb deepやDe la soulなどを通り生涯のアイドル2pacのAll eyez on meに出会うまでには、そう時間はかからなかった。なんせ今思い起こしても1996年は名盤だらけだったから。知らず知らずにヒップホップを求める様になっていた。

圧倒的な存在感。

土臭い音の上に乗るラップ。

Method manやRed man

から2pacが好きで好きで仕方ないヘッズとなっていった。

その時はまだ、1996年、同じ年に日本語ラップが改正開始してる事は知る由も無かったんだ。

その次の日の日曜日。

早速DJ NOMOのうちに遊びいったよ。

俺にヒップホップを教えてくれたDJ JACKYとDJ NOMOは同い年で家から歩いて5分内にどちらも住んでいた。

俺にはいつもその気になればヒップホップがすぐ隣にあったんだ。

毎日毎日遊びに行った。

学校が終わり、SAISON前からのレコ屋からのバスでDJのどちらかの家に行くのが日課だった。

レコードを買って四角いビニール袋を手に持つ感じにも少しずつ憧れていた。

毎日毎日ヒップホップを聞きながら何気ない日常を過ごしていた。

ある日DJ NOMOがとあるアナログをゲットしてきた。

これやべーからって。

RHYMESTERの耳ヲ貸スベキ

である。

12月だった。俺がラップを始める1996年。12月。

とにかく衝撃的だったんだ。

日本語でこんなに流暢にフロウして、こんなに固く韻が踏めるんだ。

これが

日本語ラップとの出会いとなる。

今ふと考えたら

19年ぐらい覚めない夢の中にいるんだな。

自分のUSUとしてのアルバムを出すのは2007年。

そこからまだまだ先の11年後の話。

それは一回置いといて。

ライムスに出会ってから

とにかく掘り続けた。

掘って掘って色々な情報を頑張ってゲットして行った。

キングギドラ、ペイジャー、雷、YOU THE ROCK、LAMP EYE、ブッダ、シャカ、ソウスク。色々なアーティストに出会った。

もう俺は日本語ラップのヘッズに変わっていた。

ある日、とあるVHS(ビデオ)に出会う。

それがさんピンCAMPだ。

DJ NOMOの家のリビングで爆音で再生。

ECDさんがステージに立つ。

『J-Rapは死んだ、俺が殺した。』

身体が震えたのを覚えている。

出る人出る人がみんな有名で、俺のスターばかりだ。

1996年7月7日

日比谷野外音楽堂

数え切れないヘッズの前で

ヤバすぎる日本語を駆使したラッパー達がパフォーマンスしている。

何度も何度も繰り返し見た。

その日。何度も何度も。全部歌える曲もあれば、初めて聞いた曲も。

そこで俺は決意したんだ。

『俺もラップやろう』

って。


1996年、12月31日

仲間数人で二年参りに。

DJ 2人とそこにマナブってやつもいたんだ。

隣の中学の番長で、同じ高校だった。マナブは喧嘩も強くて不良だったけど、ぶっ飛んではいなかった。だから俺も仲が良かった。

知らず知らずに同じバスになり、下山中学だったマナブも山の下で降りてDJの家で遊ぶようになってた。

そんなメンバーで二年参りに行って、コンビニで酒を買ってDJ JACKYの家に行く事に。いつもと変わらないルーティン。ただ、一つだけ違った事が。

DJ JACKYの家でいつもの様にヒップホップを聞いてると。

JACKYが

『河谷(俺の本名)ラップやってみなよ!!こんなに歌詞も覚えてるんだし、イケるって!!!』

俺が心の片隅にひた隠しにしていた『ラップやろう』って気持ちを知ってるかの様に。

背中を押された気がした。

俺は言った。

『じゃあマナブも一緒にやろうよ』って。

日本語ラップの出会いがライムスだっただけに、俺は2MCに憧れていた。

彼は二つ返事でOK。

今思うと何故彼が二つ返事でOKしてくれたのか。

マナブもきっと何かをやり始めたかったんだろう。

そしてここにラッパーのUSUの誕生である。

名前は何でも良かった。当時俺のあだ名はウスだった。

由来??

実は中学の一個上の先輩が付けてくれたあだ名である。

先輩に呼ばれると

ウッス!!!

ウス!!

と返事するのが癖だったからだ。

空手家の親父だったからね。気合いのつもりでいつしか癖になってたんだ。

高校に入り、俺を本名で呼ぶ人とウスと呼ぶ人にわかれた。

俺もウスがしっくり来ていた。だからラッパーの名前もウスでいっかw

的な軽いノリだった。

と由来の話は忘れましょうか。

そこから

2MC,1DJのグループを結成。

グループ名は

『CMJ』

この由来はダサすぎるんで伏せときます。

そこからは日本語ラップのヘッズからラッパーになったんだが、、

なにからやっていいのか、、

とにかく色々なインストで曲を作った。

そして、いつしか

新潟にもラッパーがいるという事を知る。

T.K.O(タケオ)さんというパイオニアがいる事を知る。

その人がラッパーのライブイベント『Drill』というイベントをやっていると知る。

そしてそれを一緒にやってるのがDJ YOSHIIと知る。

(当時は噂や僅かな情報だったから、誰が主催だったから確実ではない)

そして、デモを持っていけばそのイベントに出れるかも。

って話が舞い込んで来たんだ。

ガキながら

これしかない。と思い、すぐさまDJ JACKYの家で曲をカセットテープに録音したんだ。

当時はレコーディングなんて呼べる環境ではなかった。

タンテの間のミキサーにマイクを一本さす。ほんの少しの音量調整のみ。

まずはどちらかのMCがラップとサビを入れてテープに録音。今度はそのテープの音源を基にもう1人が重ねて録る。そんなやり方だった。

人生初のデモ音源が完成。

タイトルは

『天変地異』ww

地球の災害、地震や津波、山火事などに例えて、新潟のシーンをひっくり返す。なんともイカれて恥ずかしく、なんともrésistanceな曲だった。

いざ尋常に勝負。

デモを聞かせる日。

気づけば俺たちは高校2年になっていた。

YOSHIIさんが働いていた服屋さん。

『Medium rare』という店は新潟のヒップホップの聖地だった。

JACKYから


『今日、YOSHIIさん店に居るみたいだからテープ持ってくわ。』

朝一学校で言われた。

『一緒にいく??』

って言われ、俺はもちろん一緒に行く気だったんだけど、、良からぬ噂があるという。

ラッパーが行くとその場でフリースタイルをやらされるらしい。。

というラップを始めて半年未満の俺らからしたら、何とも恐ろしい都市伝説だ。

ラップ書くのすら必死なのに、フリースタイルだと!?

俺はぶるった。根性ある相方でさえ、ぶるってた。

それを察したJACKYが

『じゃあ俺1人で渡してくるから、家で待っててよ。』

と。

俺は情けなかった反面、ホッとしていた。

とにかくその日は速攻で家に帰り、JACKYからの電話を待ったんだ。

19時位だったと思う。

電話がなった。(もちろん家電ね。)

PHSが流行るのはまだちょっと先の話。

電話の相手はJACKYだった。

すぐさま一言

『とりあえずダメだったわ』

ショックだった。

『何がダメだったかは教えてくれなかった。』

今思うとYOSHIIさんはそういう人だ。

何がダメかは自分で考えろ。

そんなタイプの人である。

その圧倒的カリスマと2002年に一緒のグループでデビューするなんて、その時には想像も出来なかったよ。

とにかくダメだったと聞いた時、悔しくて。悔しくて。

とりあえず5月にある『Drill』というイベントを見に行こう。

そこに理由はあるはず。

初めて行ったクラブ'エマニエル'から時は経ち、俺も何回かクラブには遊びに行ってたが、Drillに行くのはもちろん初だった。

出ようと目標に掲げていたからね。

自分らも少なからず勘違いの自信はあったから。

突如現れた新人的なライブデビューを妄想してたから。

Drill当日。

会場はカミーノ古町にある

JUNK BOX

Openは21時。

俺らはCMJの3人でコンビニで缶ビールやら缶チューハイを煽り会場に乗り込んだ。ポケットにも一本酒を忍ばせて。

いざ会場に入ると、人に溢れかえってた。

フロアで踊るダンサー。

フロアを操るDJ

それをサポートするヘッズやCrewの人達。

綺麗なお姉ちゃんや同い年のダンサー達。

ただ騒いでるクラバー。

普段のクラブとは圧倒的に熱が違った。

いや、むしろ俺がそのDrillを知らなかっただけだ。

Show caseの時間がやってきた。

T.K.Oさんが紹介する。

『十人ー!!』

どうやら十人というグループらしい。

3MCのグループが出てきた。

見たことないバイブス、見たことないスタイル。キャラ立ちも凄い。

メロウなラッパー
スキルフルなラッパー
イカツくゴリゴリなラッパー

そしてDJは

あの夜エマニエルで話かけて来たDJだった。

敗北感がのしかかる。

そしてMCの1人は高校入学当時よく遊んでた奴だった。

ビックリしたよ。疎遠になってた奴がいきなりステージに現れたんだからさ。

全員同い年で構成された『十人』というグループを初めて知る事になる。

完全に負けである。

音源も。ライブも。

レベルが違った。

これがトップバッターなんだから、俺らCMJの天変地異なんて出る幕なしw

彼らのライブが終わったら、その友達だったMCが話かけてきた。

『ウスもラップやってるらしいじゃん?頑張ってねー。まあ俺らには勝てないよ』

なんも言えねえ。

苦笑いを返す事しか出来なかった。

数年後にそのMCと記念すべき自分がデビューするグループ『High de crew』を結成する事になる。

その夜は確か一部と二部に分かれていたと思う。

色々な先輩アーティストが出てきた。

どれも素晴らしい衝撃と敗北感を与えてくれた。

やたらデカく見えたもんだ。

高校の先輩だったD-EARTH君ももちろんまだまだ続けていたし、その夜もライブをかましていた。

むしろ彼のスキルは新潟No.1だった。

彼のライブ中に

『これからオープンマイクだ。誰でも上がってこい。』

俺は迷った。自問自答を繰り返す。

どうする?

興奮が止まらない。

僅かな勇気とプライドを握りしめて、俺は1人ステージに上がった。

DJ JACKYとマナブに背中押されながら。

『ぶちかましてくるわ』


と約束して。

でもね。

残念ながら俺の番は来なかった。

無名中の無名な俺にマイクは渡って来なかった。

先輩方やその夜の出演者でマイクを楽しそうに回していた。


笑いながらなんてステージから降りれない。

まだマイクが回ってる途中で俺はステージを降りた。

『誰でも上がっていいんじゃないのか?』

腹が立った俺はステージから降りて一目散にクラブから出た。

するとCMJの2人も追って来てくれたんだ。

JACKYが言った。

『仕方ないよ!そんな落ち込むなさ。今日は帰ろう』

チャリンコで帰ってる時。

初めて悔し涙を流した。

悔しくて。悔しくて。

絶対上手くなってやる。

そう誓ったんだ。


この日から俺はラップだけしか見えなくなった。

とにかく、あのDrillのステージを目指したんだ。


続く。