静かな車内「死にたくない」 目覚めたのは集中治療室で 尼崎脱線事故の負傷男性
4/23(月) 6:30配信 神戸新聞NEXT
 乗客106人が死亡、500人以上がけがをした兵庫県の尼崎JR脱線事故からまもなく13年になる。昨年12月、台車の部品が破断寸前のままJR西日本が新幹線を走らせ続けていたことが分かり、再び「安全」が揺らいでいる。脱線した快速電車がマンションに激突した4月25日、安全が失われた空間で何があったのか。今こそ乗客の証言に耳を傾けたい。あの日の車内でのこと、そして事故後に生きた13年を-。かけがえのない、「安全」を見つめ直すために。
     ◇
【1両目に乗車、伊丹市職員・山下亮輔さん】
■あのとき
 当時は18歳。大阪の大学に入学したばかりだった。私は最寄りの伊丹駅で1両目に乗った。車両前方に立ち、イヤホンを耳に、音楽を聞きながら大学に向かっていた。手にした文庫本越しに、同じ大学生のような男性3人が座り、会話していたことだけを覚えている。
 小説に夢中で、直前まで異変は感じなかった。尼崎駅の手前にあるカーブにさしかかり、車体の傾きが収まらなかった。つり革につかまったが耐えきれず、電車の窓に右手を突き、座る男性たちの上に倒れ込んだ。「ガー」というごう音とともに、窓越しに地面の砂利が迫るのが見えた。それを最後に、記憶は途切れた。
 気付くと、コンタクトレンズが外れ、視界がぼやけていた。周囲は真っ暗だった。マンションに激突した1両目は立体駐車場に潜り込み、私は運転席の中に飛ばされていた。
 聞こえたのは人の声だけ。「苦しい」「痛い」。少なくとも10人ぐらい。「うるさい」と制止する声、うめき声もあった。体はリクライニング席に座ったあおむけのような状態。脚の付け根あたりが車体の一部に挟まれ、ズボンのポケットに入れた携帯電話に手が届かなかった。「助けて、ここ!」。声を張り上げた。
 次第に、うめき声が減っていった。静かな車内で身動きがとれないまま、果てしなく長い時間が続いた。「死にたくない」。繰り返し、そう考えていた。
 視線の先に動く光を見つけ「生存者がいるぞ」と聞こえた。「何人おる?」と問われ、「4人」と答えた。自分以外に3人の声が聞こえていたから。初めて「助かった」と思った。約11時間かけて手作業で車体の残がいが取り除かれ、事故翌日の午前3時前、助け出された。事故から約18時間後。再び、意識を失った。

■それから
 何日後だったのかは分からない。目が覚めると、集中治療室のベッドだった。40度の高熱が1カ月続いた。脚の感覚がなく、約2カ月寝たままだった。「目を開けるのも、まばたきもしんどかった」
 下半身が圧迫されたため、脚の筋肉が壊死し、毒素が体内に回る「クラッシュ症候群」と診断された。一般病棟に移って、初めて包帯で巻かれた動かない脚を見た。「何でこんな目に遭ったのか」。泣くことしかできなかった。
 歩く準備を始めたころ、不安が押し寄せた。学校に行けるのか、就職できるのか、結婚できるのか…。付き添いの女性看護師に、家族にも話さなかった事故の記憶と苦しい胸の内を吐き出した。人に話すだけで、救われた気持ちになった。
 事故から約10カ月後に退院した。「生活は不便でも、この事故は人生を変えるきっかけ」。そう思うようになった。
 事故から3年後に症状が固定。歩けるが、つえを手放せなくなった。退院後、講演の依頼が相次ぎ、戸惑った。一緒に救助された4人のうち、2人は亡くなったと聞いていた。「自分は被害者の代表じゃない」。でも、入院中の「救われた」経験は伝えたくて引き受けた。
 大学卒業後は、地元の伊丹市役所に入庁した。事故の犠牲者を追悼するチャリティーコンサートには毎年参加し、ギターで弾き語りを続けている。
 あの事故から13年。JR西日本や安全に対して「思いはあるけど、話さない」。事故はなかったことにならないし、けがが治るわけでもないからだ。ただ、事故を乗り越えた経験は自分にしか伝えられないし、伝えたい。(竜門和諒)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180423-00000003-kobenext-soci