本日の中日新聞第一面下段にある『中日春秋』に高齢者虐待への意見が、虐待をする側の視点に立って(寄り添って)書かれていた。

 書き手の方は、たぶん、己の親が介護施設で壮絶な「虐待」を受けたことがないのだろう。実際の現場も知らないのだと思われる。

 このコラムの最後の部分に書かれた「~虐待は受けた方は無論、した方もおそらく傷ついている。なじるだけでなく、そういう人の心にも近づきたい。」

*この「なじる」という、悪い意味合いが含まれる言葉をわざわざ使っている事に書き手の立ち位置が推測される。

 「なじる」とはどういう意味で使ってるのか?虐待行為を批判することを「なじる」という言葉に置き換えたら、その意味合いは大きく変わる。理不尽な行為を「してはいけない」という正当な意見をも歪曲する言葉である。

 施設職員に虐待され、取り返しの付かないダメージを受けた高齢者と家族は、その後の日々がどういうものか、想像できるか?

 その上、この方のいう「虐待した」のエピソードは、家族介護者で、施設職員ではない筈。自宅介護をしている人と施設職員と混同してエピソードを並べるのは、誤読のもとである。

意図して書いたものではないと信じたいが、これが意図的に書かれたものであれば、憤りすら覚える。

高齢者虐待は、犯罪行為である。

それにも関わらず、確たる証拠を出せない状況(施設という密室)では、例えその行為が懲役刑に相当するものであっても、私の経験した範囲では、全く社会的なお咎めはない。

これこそ、問題なのだ。


 虐待した職員が後悔の念にかられ、時折、高齢者の顔を思い出して懺悔する(小説)部分があるが、

この小説の作者は、施設職員によって理不尽な虐待を受け、人格破壊と身体的不具合を生じ、その果てに家族介護者共々、生死を彷徨うような日々を送ることになったような体験をした人に話を聞いたことでもあるのだろうか?施設職員による虐待(暴行)さえなければ、回復できたであろう人が、この行為によって残りの人生が地獄と化したのをどう説明するのだろうか?

中日春秋