嵐がブログで戦争について言及していた。


で、そこから派生して憲法9条についても考えを述べていたが…


その点について、私ゃぁ、彼とは正反対の考えである。



確かに、彼の言うことも一理ある。



戦争なんてものは、断じてあってほしくないし、


そもそも我々人間には、他の動物とは違い、話し合いで解決する資質が備わっているのだから、殺し合いで揉めごとにケリをつけようなどという発想は、そもそも人間としての沽券にかかわると思う。


ゆえに、話し合いで解決するという人間らしさを放棄した行動であり決断である「戦争」には、はなはだ歯がゆさを禁じえない。



しかしながら、戦争は決してなくならない。


仮に、自国が戦争を放棄していても、このご時世、どこかの国の味方をしなければならない経済的・外交的背景が必ず存在するため、こちらに戦争をする気がなくても、巻き込まれる可能性が大いにある。



いくら奇麗事を並べても、なくならないものはなくならないのである。



憲法9条改正――



私は、賛成だ。


はっきり言って、今の日本では戦争に対応できない。


訊けば、日本の武力(=兵器の質)は世界トップクラスにあるという。


でも、今の日本人に、それを使いこなせるだけの能力は、まずない。


たとえ一部の人間にソレがあっても、戦争において最終的にモノを言うのは、国民全体の力、即ち「国力」であるからして、いざ戦争が起こったとき、およそ戦争とはかけ離れたところで生まれ育ち、のうのうと暮らしている我らが(年齢的に)兵力として扱われるこの国では、対応・対抗できるワケないのだ。


実際問題、日本がどこかの国と戦争することになったらどうだろう。


今の日本の体制を顧みるに…


はっきり言って、兵役のある国には、とてもじゃないが太刀打ちできない。…というか、できるワケない。


なにせ、私たちは戦い方を知らないワケだし…。


戦争を知っている国と、知らない国。


この両国間の差を埋め、ひいては戦争を起こさないための抑止力として…



「核を持つ」



という行為は、むしろ英断と捉えられるべき発想なのではなかろうか。



弱国は、ときに強国に対して発言権を得るために核を持つ。



日本が核を保有するという決断に踏み切った場合、ソレと本質は異ると思うが、


世界に対してその位置付けを認識させ、また、戦争を起こさないための壁として、或いはいざ戦争に巻き込まれたときの最終手段として核を持つことは、むしろ「国を、国民を守る」ということに繋がるのではないかと思う。



巻き込まれてからでは遅い。



だから私は………


何の考えもなしに、「憲法9条改正反対」を唱える人間には



平和ボケするなよ



と言いたい。