お盆は仏教由来の行事である
「お盆」といえば、先祖の霊を迎え、供養する日本の伝統的な行事として広く知られています。提灯を灯し、精霊馬を用意し、盆踊りに参加する――そんな夏の風物詩には、多くの人が慣れ親しんでいます。しかし、この「お盆」は、厳密には仏教由来の行事であり、神道の祭祀には存在しないものです。
仏教において「盂蘭盆(うらぼん)会」と呼ばれる儀式は、インド由来の教えであり、祖霊が餓鬼道に堕ちないよう供養することに起源を持ちます。それが中国を経て日本に伝わり、やがて「お盆」として民間に広がったのです。
この盂蘭盆会の起源として有名なのが、釈迦の十大弟子の一人である**目連尊者(もくれんそんじゃ/モッガラーナ)**の逸話です。目連は神通力によって、亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいる様子を知り、釈迦に救いを求めました。釈迦は「七月十五日に修行僧たちに食事を施し、その功徳を母に回向せよ」と教え、目連がその通りにすると、母は救われたとされます。
この話を元に、亡き親族の魂を供養する行事として、盂蘭盆会が定着したのです。つまり、お盆の精神とは、「功徳を積み、それを祖先に捧げる」ことにあると言えるでしょう。
母親が助かった事で目連は喜び、踊ったと言う言い伝えが盆踊りになったとか。
神道には「お盆」がない
神道における祖霊信仰や先祖供養は、仏教とはまったく異なる文脈にあります。神道では、亡くなった人は「祖霊」として家の守り神(氏神)となり、家の神棚や祖霊舎(みたまや)に祀られるという考え方が基本です。
年中行事の中でも、神道においては「春季・秋季例祭」や「新嘗祭」「大祓」などが重要視され、「お盆」という行事は本来の神道には存在しません。
つまり、神道における「先祖祭祀」と、仏教における「お盆の供養」は、似て非なるものであり、本質的に宗教的な背景が異なるのです。
しかしながら! 物部神道には安神詞、霊魂安定詞を唱える祭祀があり、幽世から現世に来る霊魂に対して説教すると言う祝詞がございます。要は、神になるためにどこにいってあれをしろとか祖霊に殉じて精進を励めとかです汗
お盆はないと言いながらもこの時期に来る霊魂に対してそういった儀式をする事もあるのです。
混同される理由 〜日本人の宗教観〜
それではなぜ、多くの人が神道と仏教を混同し、「お盆=神道の行事」と誤解してしまうのでしょうか?
その理由の一つには、日本人の宗教に対する柔軟な姿勢があります。神社で初詣をし、仏教寺院でお墓参りをし、クリスマスを祝い、結婚式はチャペルで挙げる。こうした多宗教的な行動が、特に矛盾と感じられず日常の中に溶け込んでいるのが日本文化の特徴です。
明治時代以前の日本では、「神仏習合」が一般的であり、神と仏は共に祀られ、神社にも仏教的な儀式が行われていました。それが明治維新の「神仏分離令」によって形式的には分けられたものの、庶民の間ではその境界は曖昧なまま、現在にまで続いているのです。
他にも日曜日がお休みなのはキリスト教の教えであったり、喪中なんかも儒教の教えであったりします。なので神道には存在しないものが取り入れられている事も多いです。忌中には参拝してはダメとか…誰が言ったか知りませんがそんな事は誰かが言った事なのでならう理由もありません。
「日本は無宗教」は誤解、多宗教国家である
日本人の多くは「自分は無宗教だ」と答える傾向があります。しかし、実際には人生の節目ごとに何らかの宗教儀式を行っており、信仰の意識が薄いだけで、宗教行動は多く存在しているのです。
むしろ日本は、世界的に見ても稀有な多宗教国家です。家庭内に神棚と仏壇が共存することも珍しくありませんし、神道と仏教の儀礼が交互に用いられることもあります。
こうした背景から、「お盆は神道にもある」と思い込んでしまうのも無理はないのかもしれません。しかし、正確に言えばそれは宗教的な混同であり、あくまでも文化的慣習が生んだ融合の結果なのです。
おわりに:宗教の違いを知る意義
日常に溶け込んでいるからこそ、私たちはあまり意識せずに宗教的な行事を行っていることが多々あります。ですが、それぞれの行事がどの宗教に属し、どんな意味を持っているのかを知ることで、より深く理解し、敬意を持って行動することができます。
「お盆は仏教の行事であり、神道には存在しない」
この一点を知るだけでも、宗教や文化への理解や面白さは一歩深まるのではないでしょうか。何のために行うのか何の儀式なのか、そう言った事を知ることの大切さを理解していただきたい。
