代替医療に関わる先生方はみな、「代替」という言い方に納得していないはず。

まるで、近代西洋医学が本流であって、代替療法はそれを補完するもの、と聞こえるからです。

近代西洋医学が、特権化されているのを感じます。

コロナ時代に、これほど無力なのに!

 

このような「上下関係」を逆転させたいところですが、せめて「対等」くらいにもっていきたいものです。

そこにヒントを与えてくれるのが、「全体論と局在論」です。

 

代替医療のほとんどは、患者の全身状態の回復に努めるもので、その結果として「部分としての病気」も治るという考え方です。

それが、「全体論」です。

 

鍼灸経絡(通り道)の考え方が、根本にあります。臓器というより、それらの関係性バランスを大切にします。

メディカル・ハーブ血液を浄化するとされるのも、浄化が最終目的なのではなく、浄化によってさまざまな病気が結果的に治っていくという考え方です。

転地療法(引っ越しを含む)気の流れが良くなりガンが消えたというのも、よくある話です。

気功笑いガンが消えるのは有名で、本がたくさん出ています。

音楽療法は大学・短大・専門学校で講座が開かれています。

音楽療法は、とくに精神面・心理面で患者の状態を改善し、それによって免疫力が回復するというものです。

栄養状態を良くする、適度な運動を取り入れるというのも、もちろんこれらの仲間です。

 

このように、代替療法の多くは「全身状態を良くする」=「全体論」の考え方です。

 

これに対して、近代西洋医学は、人体を細分化して見る「局在論」です。

病院に行くと、内科、外科、整形外科、循環器科、泌尿器科、皮膚科、産婦人科、眼科……と分かれているのが、それです。

専門化することが学問の発展であるかのような誤解があり、どんどん細かく、細かく、と分け入って、とうとう、「病気だけを見ていて、患者(人間)を見ていない」と言われる医学が誕生したのです。

循環器科の先生が、「泌尿器科のことは(専門じゃないから)わからない」と言われると、あぜんとします。

 

「近代西洋医学」と「代替療法」と表現すると、「主」と「従」のように見えて、なにかモヤモヤしていたのです。

それを、「局在論」と「全体論」と捉え直すといいのだと教えてくれたのが、次の本です。

 

 黒﨑周一著 『ホメオパシーとヴィクトリア朝イギリスの医学――科学と非科学の境界――』(刀水書房)

 

この先生は明治大学の助教で、ホメオパシーの支持者というわけではなく、近代西洋医学の成立過程について研究している歴史学者です。

 書名にある「ヴィクトリア朝」というのは、1837年~1901年のころ。

今でもホメオパシーのことを「えせ科学」という人がいますが、こんな昔から、その論争はあったそうです。

1700年代から解剖学がどんどん進んで(日本でも1774年、前野良沢・杉田玄白の『解体新書』が出されましたね)、臓器の仕組みをきわめてゆくのが、学問として面白くなったのでしょうね。

解剖学の延長線上に発達した臨床医学は、必然的に「局在論」になってしまったというわけです。

  〔われながら、わかりやすい説明! 自画自賛 (^-^;) 〕

 

で、「局在論」の医師たち(アロパシー)は、「全体論」であるホメオパシーを徹底的に排除したそうです。

黒﨑先生の本によると、それは理論的な正当性で論争したというより、「局在論」の医師たちが、自分たちの立場や生活が脅かされるのを恐れて、ホメオパシーをつぶしたのだということです。

汚いですね!

人類より、自分が大事なのでしょうか?

 

それで、自分たち「局在論」のことを「科学性」と言っているのです。

この本は、ホメオパシーのことしか言っていませんが、これはすべての代替療法に通じる問題ですね。

「全体論」だって、もう一つの「科学性」なのですよ!

胸を張りましょう!

「局在論」だけが「科学」であるかのように権威化されているのは、どう見ても偏った物の見方だと思いませんか?

「局在論」と「全体論」は少なくとも対等であるべきで、むしろ「全体論」のほうが上なのではないでしょうか?

人間の全身状態を見ているのですから。

 

こういう物の見方から、私はすべての代替療法=全体論=に頑張ってほしいのです。

免疫力がモノを言うコロナ時代、すべての代替療法がスクラムを組んだら、日本を変えられるような気がします。

 

〔上に掲げた「代替療法=全体論」 「近代西洋医学=局在論」の図は、著作権フリー、転載自由。このフレーズをはやらせて、日本を救いましょう。〕