ジスルフィド結合
- ジスルフィド=ジ(二つの)+スルフィド(硫黄)
- 名称の起源は、19世紀から20世紀初頭にかけて整備された有機化学・無機化学の命名法
- この構造の重要性を明らかにした研究者・Frederick Sanger
- →インスリンの化学構造解明とDNA配列解析法の開発で知られる
- →1980年に核酸配列決定法への貢献でノーベル化学賞を受賞
- クリスチャン・B・アンフィンセンはタンパク質の折りたたみの仕組みを解明
- →1972年にノーベル化学賞を受賞
- 2つのアミノ酸の側鎖にある硫黄原子同士が共有結合
- タンパク質の立体構造を安定化
- 熱や化学物質による変性に対する耐性を高める
日常生活で見られる事柄
- ジスルフィド結合が多いほど髪はしっかりした状態になる
- パーマは薬剤でジスルフィド結合を一度切り、髪を巻いた状態で再び結合
- 爪が硬いのはケラチン中のジスルフィド結合 髪や皮膚より丈夫な構造
- 羊毛はジスルフィド結合のおかげで弾力性がありシワになりにくい
- 鳥の羽や動物の毛にもケラチンが含まれ、ジスルフィド結合が強度を支えている
- パン生地をこねるとタンパク質同士が結びつき生地の「もちもち感」 がでる
塙保己一とは?
- ①国学者・古典学者・文献学者
- 国学者の 本居宣長 のように日本の古典研究を行う
- 特定の思想を広めるというより、古文書や古典籍を収集・整理に注力
- 塙保己一は「日本文化の保存者」
- ②戦前は誰もが知る著名人
- 「盲目でありながら学問を究めた偉人」として、戦前の教科書によく掲載
- ③ヘレンケラーも尊敬していた
- Helen Keller は来日した際に保己一の事績を知り、深い敬意を表した
- 視覚障害を乗り越えて学問を大成した人物として共感を覚えた
- ④何故 世界の人々から尊敬された?
- 全盲という困難を乗り越えて学問を究めた
- 膨大な日本古典を後世に残した
- 塙保己一がいなければ失われていた可能性のある文献も少なくない
- 日本中に散見される古典を聞き、暗記する能力が長けていた
- ⑤戦後は消された?教科書から?
- 戦後は教科書掲載が大幅に減少
- ⑥何故消された?
- 戦後の教育課程の大幅な見直し
- 人物伝中心の修身教育の廃止
- 授業時間や掲載人物の整理
- ⑦誰かにとって都合悪い思想だった?
- 塙保己一は政治思想家というより学者
- 特定の政治思想を唱えて弾圧された人物ではないというが・・・
- ⑧思想考え方を記したのが 「群書類従」?
- 群書類従 は保己一自身の思想書ではない
- 日本の古典・歴史書・日記・記録などを集めて体系化した巨大な文献集
- 最大の業績は、自分の思想を述べることではなく、「資料を後世に残したこと」
- 例えば、
- 日本の古文書や古記録は全国に散逸しそうな文献を収集し、分類・整理
- 約1,270点以上の文献を収録
- 神道関係の文献----『神道五部書』 神社縁起 祭祀記録
- 天皇・皇室関係----歴代天皇の記録 即位関係資料 皇室儀式書
- 家系図・系図 ----公家系図 武家系図 皇族系譜
- 『群書類従』には、
- 原本が失われた文献
- 現存最古の写本しか残っていない文献
- 他では読めない古記録が多数収録
- 『古事記』『日本書紀』に次ぐレベルで重要な史料集
- ⑨21世紀になって見直されつつある? そうでもない?
- 障害を乗り越えた人物
- 日本文化財保存の功労者
- 文献学の先駆者
-
として再評価されつつあるが、戦前ほどではない
-
-
⑩戦後GHQにより大規模な情報統制が実施された。その大きな目的は「WGIP(War Guilt Information Program)」つまり日本人に自虐思想を植え付けるものである。従って日本人が過去の偉大な人物の功績に感銘を受けて「頑張る!意識を高揚させる」ということは都合が悪いのである。従って塙保己一のような人物を教科書で教える、ということは次第になくなり、現在では塙保己一のことを知る若者はほとんど居ない。これはWGIPの成功例か?
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- 黒門市場の起源は1820年頃
- 黒門とは、当時の圓明寺の黒塗りの山門が由来
- この付近に魚商人が集まり、堺や紀州から運ばれた魚を販売
- 当初は「圓明寺市場」
- 2010年代後半から観光地化が進む
- 外国人観光客の増加が「値段が高くなった」と言われる理由
黒門市場商店街のあとは明石の魚の棚
- 魚の棚は約400年前、1619年の明石城築城とともに生まれた市場
- 宮本武蔵が関わった城下町整備とともに形成された
- 「うおんたな」と呼ぶ
- 明石焼きを食べて、昼網のタコや鯛を見ながら歩くのが一番
- 明石では「明石焼き」より「玉子焼き」と呼ぶ人が多い
- 明石海峡は潮の流れが速く、そこで育ったタコは身が締まり美味しいことで有名
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奈良郡山は金魚の街
- 1724年頃、郡山藩主・ 柳沢吉里 が甲斐国から金魚を持ち込んだ
- 武士や農家の副業として養殖が広まり、日本有数の産地に
- 最盛期には全国生産量の約半分を占めるほどの大産地
- 金魚マンホール、自動販売機水槽、金魚ストリートなど、街の至る所に金魚文化
奈良郡山は豊臣秀長(秀吉の弟)の街
- 1585年、豊臣秀長 が大和国100万石余を与えられ、郡山城を本拠地に
- 秀長は郡山城を大規模に整備し、大和支配の中心都市を築く
- 秀長の家臣・ 藤堂高虎 や 増田長盛 らが郡山城下町を整備
JR郡山駅前の粉もん屋八で反省会

















































