父の死14
7月の末にホスピスに入った父は、寝ていることが多くなった。
真夏の照り返しが強い道を歩いて俺は父のもとへ毎日通った。本や新聞を読むのにも体力がいるのだろうか。
だんだんと新聞も読まなくなり、食事も自室で一人で摂ることがほとんどだった。他人と顔を合わせるのが苦手なのだ。
何の弱音もはかない父だったが腰が痛いといつも言っていた。腰にも癌が転移していたのかもしれない。
横になれば平気だからと、子供の前では精一杯強がっていた。
でも癌は予想以上の速さで父の体をむしばんでいった。
8月のある日、同じように腰が痛いと言った父に、医師がモルヒネのパッチシールを貼れば楽になります、意識はなくなりますが。と。
我慢できずに苦しそうな父に俺は、痛み止め使ってもらうよと叫んだ。父は抵抗しなかった。
モルヒネが効いて父は眠った。もう意思の疎通もできなくなるのか・・・・
父の死13
”生きる”ことに目が向いていったのには、運よく掴んだ仕事にある。
やりがいを感じるようになったのだ。これならもう少し生きてみてもいいかな。
幸せにはなっちゃいけないけど、世の中の隅っこを生き続けていこうかと思い始めた。
それから10年以上も経ち、いまだに生き続けている俺。母に対する気持ちは変わらず苦しいままだけど、なんとか心療内科にかかり薬で気持ちを落ち着けている。
そんな中、父は次第に年老いていき、80歳を越えた。
膀胱癌の治療をやめたせいで、肺に転移したのがわかったのが6月だったかな。
父は弱音一つ吐かなかった。どこか達観していた。
もう家では面倒みきれないと判断しケアマネージャーさんと、ホスピスを探した。
家からそう遠くないところに1か所新たにできたホスピスに入居できることになった。
父はホスピスに入ることを嫌がった。家で過ごしたいと言った。何度も何度も説得した。家では食事も風呂も人工肛門の処理ももう限界なんだと。
ボケていく父にもようやく伝わったのか、ホスピスに行くことを承諾した。
父には「元気になればまた帰ってこれるから。まずは食事しっかり摂ろうね。」と。
ホスピスに行く当日、俺が準備に忙しいとき、ケアマネージャーさんが手伝いに来てくれた。父の部屋で、父はケアマネージャーさんに昔話をしていたらしい。とても穏やかな顔つきをしていたのを覚えている。
父は死を覚悟したのだろうか。
ホスピスの部屋に入った時、
「あ~ここが私の終の棲家か。」とポツリとつぶやいた。
父は死を覚悟したのだろう。
父の死12
母が死んだ。親戚も父も誰も俺を責めなかった。それがかえってつらかった。いっそ罵倒されて殴られて勘当でもされたほうがましだった。
それからは死ぬことばかり考えていた。仕事も辞めフラフラとした毎日。
母と同じように首を吊ろうか、高層ビルから飛び降りようか、電車に飛び込もうか。
そんなことばかり考えていた。
あてもなく街をうろついていた俺の目にふと飛び込んできた献血の看板。血でもなんでもくれてやる、とその足で献血に行った。
しばらくして携帯に連絡が来た。すぐに病院に来てほしいと。
「すぐに治療を開始しましょう。」日赤の医師がそう告げた。むしろ俺は嬉しかった。命には限りがあることを身をもって知った。これで死ぬことができる。
「はい、わかりました。」と良い子ぶって答えたものの治療なんかするはずもなく薬も飲まず過ごしていた。ますます体調は悪くなっていった。
ある日肺炎で倒れた。これで死ぬのかな。死ねるかな。死んでいいんだ俺なんて。
この時も父は黙って見舞いに来てくれた。どうやら医師は父に俺の病気のことは言わなかったようだ。言ったら父がショックを受けるとでも思ったのだろうか。
1週間ほどで退院した。退院させられた。死にそこねた。
仕事を探そう、と思い始めたのはこの頃だ。ただ単に遊びに使う金が欲しかったからだ。
運良く仕事が決まった。ここで自分の生き方に変化が出てきた。