さて前回のブログ
《願いが叶う法則。その①必要なのは先ずは徳分、それから…》
あなたの徳分と引き換え可能な
手に入れられる《願い叶えますチケット》の種類があり
その
《願い叶えますチケット》にはランクがあります。
というお話でした。
またこのチケットには
ある法則によって発動する呪がかけられています。
とも書きました。
*例えの話です。
この
ある法則によって発動する呪
とは、
お願い事をした後のことになります。
お願い事が、自分の思い描いた形に
叶えば、それは嬉しいことですが、
自分の思い描いた形とは違った場合に
発動する呪なのです。
願いが叶わなかった時や
自分の思い描いた形では無かったとき、
あなたはその結果に感謝することが出来ますか?
難儀の中にあっては、なかなか難しいことですが、
これで済んでよかった。
と、
感謝の気持ちを持って受け入れて受け止めることが、
大事なんです。
ここが、
大難を小難に。小難を無難に変える分かれ道になります。
呪が発動するポイントです。
起こった事実は変えられませんが、
この出来事の向かう先は調えることが出来ます。
どんな結果であろうと、"これが最善の道"
と信じることで、物事は必ず好転していきます。
そもそも
疑うこともなく
仏様は七手先を見て、今のあなたにとっての
最善へと繋いでくださっています。
ですが、私たちは
望んだ形で叶わないと不平不満を言い立てます。
願い事をする
↓
叶わなかったと憤る。
↓
もう二度と神仏に頼らない。と嘯く。
↓
時間が経って、これでよかったんだと納得する。
このパターンを繰り返す人、多いんですよ。
例えば希望校への受験。
《○○高校に合格しますように》
と神仏に祈ります。
かなり努力が必要なチャレンジの場合とします。
[神様に祈願した場合】
神様は動かれるのが早いです。
無事に合格します。
けれども、実は分布相応な学校に合格したため
授業についていけなかったり、馴染めなかったり
次第に学校に足が向かなくなります。
とか
あなたが叶えていただくだけの徳分を持っていたなら
良いのですが、持っていない場合は、
徳を借金していることになります。
徳を積んで徳分を貯める以上に、
徳を積まなければ借りた分が返せません。
…そもそも、最初から徳分が少ないという事は、
普段から徳を積む行為には無頓着でしょう。
結果、破綻してしまいます。
[仏様に祈願した場合】
仏様は7手先をよんで動かれます。
不合格だったとします。
けれども、実は分布相応な学校だったため
授業についていけなかったり、馴染めなかったり
次第に学校に足が向かなくなるのを見越して
あなたにとって最善の道につながる学校に
合格させて貰えます。
あなたが叶えていただくだけの徳分を持っていたなら
良いのですが、持っていない場合は、叶いません。
仏様は借金させてまで叶えません。
あなたの徳分の範囲=あなたに相応しい場所。
だからです。
望んだ結果では無かった場合。
納得出来ない人や
納得するまで時間のかかる人は
神仏とのご縁が薄く、また、徳分の少ない人です。
願っておきながら
結果を受け入れず、文句を言っているのです。
これは、
私が願ったんだから叶って当然。
私が願ったんだから、叶えて当然。
だという気持ちがあるからです。
違いますか?
いいえ。違わないのですよ。
この心を慢といいますが
慢の心は、見えにくく、気付きにくいのです。
だから、
あなたは、あなた自身を変えなくてはならないのです。
受験を例えに出しましたが
学校、部活、職場、地域など
全てに当てはまることです。
怪我や病気も、根幹は同じです。
なぜあの時。
なぜ私が。
何故、何故、と思う気持ちは
私が怪我をするはずがない。
私が病気になるなんておかしい。
あれだけしてやったのに
これだけしてやったのに
と
させていただけたことへの感謝はなく
してやったと上からものを申しているのです。
不足の気持ちがあるからです。
この状態は、ずっと業を積んでいることになります。
不足の心を持つ限り積み続けます。
これが怖いとこです。
全てに意味があります。
怪我をしなければ。
病気にならなければ。
変えられない。変われないのです。
ここが、変わるチャンスです。
仏の顔も三度まで。
という諺がありますが、真理かもしれません。
納得できない気持ちや
許せない、やるせない気持ちはあるでしょうが
いつまでもぐずぐず言っていても
状況は変わらないばかりか悪化するばかりです。
物事が起こった時。
すぐにそれを受け止めて、まず感謝することです。
時間が経ってから受け入れるのとでは全く違います。
受け入れる事は大事ですが
最終的に受け入れることが目的ではないからです。
起こった結果を丸ごと受け入れる態勢が違うのです。
時間が経てば受け入れるのは、自分の意思ではなく
諦めや惰性で、受動的なんです。
すぐに感謝して受け入れられる人は能動的。
起こった出来事に意味を見つけ前に進みます。
自分に置き換えて考えると
すぐにわかりますよね。
自転車貸してーと頼まれたので
自転車を貸したとしましょう。
貸した相手が、自転車でひっくり返り怪我をしたとします。
『あなたが自転車なんか貸すから、怪我をした!』
と言われたらどうですか?
親切で貸したことを自分の非を認めず
貸したあなたが悪いと責められれば、
次に貸してーと言ってきても。
次は貸さない。ですよね?
もしくは、
美味しいケーキ屋さんへの行き方を聞かれて
教えたとします。
その道を行って事故をしたとします。
あなたがあんな道を教えたから事故をしたんだ。
と言われればどうですか?
次に道を尋ねられても教えますか?
私はこんな事は言わないし、
そんなふうに考えたりしない。と思いますか?
神様と仏様との違いもありますが
お願いをして、叶わなかったと思うのは
全く同じ思考なのです。
不平不満の心に囚われているのです。
それが、
願いが叶う人、叶わない人。
神仏によく愛される人、そうでない人の
違いになってゆくのです。

起こった出来事の全てに意味があると受け入れて
何故起こったのかと考え
改善していく。
これが、呪が発動するタイミング。
願いのサイズによって
業によって
徳分も不徳も倍々にたまります。