4月28日水曜日。
朝、未だ闇に包まれていると想いながらも、
私の意識と肉体の間に隔たりは無かった。
良いじゃん。私は一人ボソッと呟いていた。
今日一番の自分の声だった。
良いじゃん、良いじゃん、いいじゃん。
一番でも2番でも、3時のおやつは文明堂でも、
別に誰に迷惑かけてる訳ではないのだから良いじゃんと想いながら、
いつものように珈琲をたいた。
マグカップの中に珈琲を注いでる間と言うのは、
本当に幸せである。
独りぼっち、日の当たらない場所で汗くさし、
私の場合、
玩具のフチ子を添え、その写真を撮る為だけの活動に、
不安や疑問を抱いて仕舞うことも無きしにあらずだし、
そこに他者からの同情や対価、ご褒美、お褒めの言葉等を欲しくなる事もあることも無きしにあらずだけれど、
そこは死人に花と同じものなだけで、
ひと様の好意は有り難く受け取るだけで、
それだけで好きになるだけで、
今はどうでも良く、
とりあえず、
注ぐと言う行為には愛と情、愛情しかないと思っている。
何たって自分の足で歩みより、寄り添りたい気持ちが根底にあり、きっかけにもなってるはずだから。
したらその先を知りたくなるし、見たくはならないものだろうか?
とりあえずいいかなる時でも、
それが例えその対象が珈琲でなくても、
注いでるんだと言う確かな実感と活動は、
筆舌尽くせない程に本当に幸せなことである。
そして価値ある一人の人間として、自分の存在を確認出来る訳である。
とりあえず玩具を添え、写真を撮る。
ゴールがあるのは安らぎでしかない。
何故ならば、
この行為事態に前向きな姿勢と活動があり、
何の雑念もいらないからだ。
無念無想のループ。
まさに縁は続くよどこまでも、ひた走る列車に乗って揺られ、レッツラゴーってやつ。意味不明。
しかしそれが中々苦行である。
穴があったら入れたい、
寒かったら温めたい、
風邪ひいたらお薬飲む、
肥ったから痩せたい、
お腹空いてる子供がいたらたっぷり食わせたい、
お仕事終わりの乾いた身体に冷えたビールをぐっと流し込みたい
好きな子の笑顔を見たい
たったそれだけの事だ。
無尽蔵(むじんぞう)に持ってても使わなきゃ朽ち果てるだけ。
まさに沈黙の臓器腎臓(じんぞう)の機能低下と同じかもしれない。
浮腫み、渇き、血行不良を起こし、滞り、渇き、固くなり、本来流れてなければならない水が流れていかないみたいな、、。流れなきゃ進むこともないみたいな、、
こうなったらもう不知を装うことにも限界が来る。
(個人差あり、)
とりあえず、玩具を適当に選び、
注ぎ終わったマグカップのふちにその玩具を添え、
写真を撮る。
そしてパシャリと言う音と共に、切れ味最高の快感が味わえる。
ある意味昇天。このまま死んでも後悔しなさそうとまで思って仕舞う。
今日の写真↓
離れない、離れたくない。
フチ子は骸になっても、化けても、
絶対にここから離れない。
不知を装おう事が出来ないくらい愛して仕舞ってるから。
フチ子極度の恥ずかしがり屋なのと、
着ぐるみを着たフチ子が一人呟いた気がした。
そしてその次の瞬間だった。
私だって珈琲と離れない、離れたくない、離れられないからと珈琲女も私の背後で呟いた気がした。
いつもの幻聴かと気にはしなかったが、
離れられないと言う言葉は、
愛してると言う言葉より誠実な気がした。
とりあえず愛が解らず、ただ愛されたいだけの私は、
やっぱり今日も混乱し、頭の中はループになり、
結局苦虫を噛み潰したような顔で、
いつものように独りぼっちで珈琲を飲むのだった。
愛してるよフチ子、いつも一瞬でごめんねと言って見ても、
案の定何も起きなかった。
完
(書く女シリーズ)
(フチ子シリーズ)
(珈琲女シリーズ)

