彼女のiPhoneの中では、彼女の元男友達がギター演奏をしている。曲名は『無伴奏チェロ組曲Ⅰ』。
元男友達は彼女の部屋で、テーブルを挟んで彼女の向かい側に座り、彼女のすきな俳優のポスターをバックに、青い帽子を被っている。彼の向かい側で、彼女は彼をムービーで撮影している。
それはテイク3であった。時間にして2分34秒。彼は弾き出して26秒後に音を間違えると「あ、まちがえた」と呟いた。次に少しだけ弾いてみて、「やりなおし」と、人懐こい笑みを彼女に向けた。
そして、一気に弾き切った。
2分34秒間、彼の指が止まる事は無かった。
音にたわみを付けて、途中間を置くと、音を響かせたまま、次の音を紡いでいった。ギターはチェロのピッチに設定されていた。彼が手にしていたのは、いつも彼が車に置いているミニギターだった。彼が奏でると、音が煌めき出す。彼女にはそう聞こえていた。
出会って3回目、2人は花火大会に行った。電車に乗って。待ち合わせ場所は彼の部屋だった。次に彼は彼女の家を訪ねた。無機質な部屋で彼女は『無伴奏』を聞いていた。彼もその曲が好きだと言った。
それから、お互い色んなものを持ち寄りながら、互いの家を行き来した。ミスタードーナツ、鶏の唐揚げ、手作りのゴーヤチャンプルー、自分には似合わなかったネックレス、結婚式で貰った花束。互いの忘れものを届ける事もあった。
「その曲、練習してみようかな」彼が言ったのは、出会って半月後の事だった。それから10日経った頃、彼は弾けるようになったと言った。友だちや同僚の結婚式にそれぞれが出席した後だった。
彼女は、『無伴奏』の曲自体に心から身をよせ陶酔していたわけではなかった。この曲を聴くと、過去に憧れた男を想い出すのだ。
この曲を見事に弾き終えた彼が、彼女が淹れたコーヒーカップに手を伸ばしたところで、映像は切れた。本当は最後に2人で海へ遠出し、彼はそこで弾く事になっていたが、彼女が『残酷だ』と言って断った為、その予定は無くなった。9月半ばを過ぎる頃だった。それで彼の演奏は、彼女の部屋にて、彼女のiPhoneに収まる事になった。彼女の脳裏にある『無伴奏チェロ組曲I』には、新たなる男の記憶が刻まれた。