ハイドンの弦楽四重奏曲中、最高傑作と謳われる『英雄』、その終楽章プレストでの嵐のような三連符を危なげない運指で弾きこなして。
華やかで荘厳な和音で締め括られた演奏。
最後の余韻が収まるのを待ちきれずに会場は万雷の拍手に包まれた。素晴らしい出来の演奏を二曲続けて味わえた幸運な来場者から、ベストを尽くした演奏者たちへと惜しみない賛辞の拍手が贈られる。
尽きない拍手をやりきった喜びの滲み出る笑顔で受け止めていた彼と俺の目が合った、その一瞬。
彼の・・・託生の瞳が翳る。
俺と託生の間を流れ去っていく数限りない過去の場面。
祠堂での幸せで満ち足りた日々。
今は、届かない日々。
あの最後の日から、託生がいかに努力してきたか。
どれ程真っ直ぐに俺へと向かって歩んできてくれていたか。
この演奏を聴けばわかる。
託生の俺への想いも。
それなのに。
そんな痛そうな貌をさせてしまう。
俺は・・・。
なのに。
託生の貌から離せない俺の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
微笑ったんだ。
託生は。
俺に向かって、優しく穏やかに。
まるで俺を赦すかのように。
“僕は大丈夫だよ。”って、おまえの声が聴こえる。
そうだよな。
おまえはそういうやつだった。
人のことばかり考えて、自分のことは後回しでさ。
けど。
おまえは嘘つきだ。
本当は全然大丈夫なんかじゃないくせに。
痛みも苦しみも全部を自分一人で引き受けるつもりなんだろ?
だけど、そんなことさせられるはずがない。
放っておけるはずがないだろ?
俺は・・・。
『待って、ギイ。ダメよっ。』
託生に向かって踏み出しかけた一歩を引き戻すように腕を強く引かれてヒソヒソと噛みつかれる。
『もういいだろ?オリヴィア。これ以上続けたくない。』
全体重を掛けて引き留めようとする傍らの彼女、オリヴィアに声を潜めて、だが、うんざり感はしっかりと伝わるように囁く。
『それについては私も同感だけれど。そういう訳にもいかないのよ。貴方もそうでしょ?』
『・・・・・・・俺の把握している現状と今の発言に認識の隔たりを感じるんだが?』
急速に膨らむ疑惑。
俺の知らない裏がある?
疑いの眼差しを艶やかな微笑で艶然と受け止めて、オリヴィアは返してきた。
『バレちゃったか。・・・でも仕方がないわね。ここで契約破棄されたら私、困るのよ。そして多分貴方もね。』
契約。
そんなものは俺と彼女の間には存在しない。
在るのは―――。
そして彼女がそれを知っているということは・・・。
『今動くのは得策とは言えないんじゃない?まずは状況をクリアにして・・・でなければ大切なモノも守れないわよ?』
やっと収まりつつある拍手の中、こちらを見詰めていた託生の微笑がわずかに歪み、その深い漆黒の瞳が滲んでいくのを何も出来ずに見送る。
俺は何て無力なんだ。
『・・・・忠告をありがとう。ではまずは貴女から。勿論、ご協力願えるんだろ?』
『ええ、勿論。ただし、こちらからも呑んでもらいたい条件があるわ。』
『条件?』
この数ヵ月、例の契約に縛られた結果、過ごす時間と比例して熟知したと思っていたオリヴィアの性格。
それが偽りの仮面であったことに、このたった数分間で気付かされる。
『言ったでしょ?私にも守りたいモノがあるのよ。』
想像以上に強かだった彼女。
『お互いの守りたいモノの為に協力しましょう?』
鮮やかに微笑んだ、これがきっと真の姿。
『・・・最初からそれで来てくれれば話は早かったのに。』
『あら、人生そんなに甘くないのよ。』
思わず洩れた溜め息に彼女のドライな呟きが虚しく被さった。