セミナー3回めは仕事が入り、やっぱり行けませんでした><
資料だけ後でもらいましたが、熊本大学院で建築史を研究されている伊東龍一教授で
「多良木の建築遺産」についてのセミナーでした。
青井阿蘇神社の国宝指定への調査の先頭に立った先生だそうです。
青蓮寺や大久保の阿弥陀堂、中山観音堂、太田家、木下家の茶屋(焼酎製造所)のカギ屋造りなどの
お話のようでした。現地学習もあるので聴きたかったのですが、仕事なのでしょうがないです。

4回めは錦町にお住まいの熊本県文化財保護指導委員の尾方保之先生でした。
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多良木中学校に赴任された事があると紹介され、
そういえば私は習いませんでしたが中学生の時にいらっしゃったなと思い出しました。
テーマは「江戸時代の多良木」で百太郎溝・幸野溝による新田開発のお話でした。
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多良木町には農業に欠かせない2つの用水路、百太郎溝と幸野溝が流れています。
どちらも江戸時代(1667年頃と1696年工事開始)につくられましたが
百太郎溝は取り入れ口が多良木町赤坂にあり、
農民が作り、百太郎さんという人が人柱に立って完成したという伝説もあり親しみがある溝です。
(実際は郡奉行の有瀬四兵衛が測量をしていることから藩もタッチしているということです。)
一方幸野溝は、取り入れ口が湯前町にあり、久米地区を流れる溝ではありますが、どちらかと言えば
百太郎溝の方が多良木町を代表する溝と認識していました。

どちらの溝も新田開発に大きくかかわり、それにより相良藩の総石高が5千石も増産しましたが
このうちの3千370石が幸野溝完成によるものでした。
そして、湯前、多良木、久米に多くの入植者が集まり、
333軒の農家からなる「東方村」ができ、そこに中原の天神さん(神社)、その前の福田寺、
そして茶屋(焼酎屋)を営む太田家がありで、新田村として栄えていたようですが、
増税反対運動のおとがめにより村はとり潰しとなり湯前、多良木、久米に分割され、
首謀者の庄屋、前田喜三左衛門、半左衛門兄弟は斬り首、曝し首になり
その供養碑は福田寺にあるとのことです。このことも初めて知りました。
さらに、二人の来ていた着物の柄に似た縦縞模様と横縞模様の虫が大発生して、
作物を食い荒らしたという前田兄弟の崇り伝説というのがあるそうです。

百太郎、幸野溝がどこまで伸びているのか、考えた事がありませんでしたが
帰って地図を見ると百太郎溝が錦町一武の原田川(訂正;西村の高柱川ではありませんでした)
幸野溝は西村の高柱川を経て私の好きな小纚川に落ちているようです。

それから、幸野溝の初期の工事の頃、球磨川の洪水により2度大堰が破れていたのを
薩摩の石工を呼んで掘削工事を行い再築されたそうですが、薩摩の石工が磁石を持っていて
まっすぐに掘る技術を持っていたそうです。

尾方先生は、中原の天神さん、福田寺の新田村と太田家で村おこしをやったらどうか?と言われました。
福田寺には幸野溝工事の責任者である郡奉行の高橋政重翁のお墓もあるし、
前田兄弟供養碑の責任者の一人が茶屋甚兵衛(太田家)であるし、
前田兄弟の崇り伝説なども知らない人が多いと思うので、
もっとPRしたらいいのではないかと思いました。