4月4日(土)に書いたはずのテレビドラマ批評・感想が、なぜかアップされていませんでした。アップされていないだけでなく、保存もされていません。せっかく書いたのにショック! 

 書いたのは『102回目のプロポーズ』『産まない女はダメですか』『風、薫る』の3作品の感想でした。『102回目のプロポーズ』は、期待していないのに見てしまったけど、34年を経て同じことはできないので、どう現代風にアレンジするかが見どころ、ということを書きました。『産まない女はダメですか』は、夫の人物像がまったくの謎で、ほとんどホラーになっている、ということを書きました。『風、薫る』は、悲惨な話も主人公が二人であることもいけなくはないものの、この作品には魅力が感じられない、ということを書きました。かなり覚えてはいるものの、新学期で忙しい時期ですし、思い出してもう一度書き直す余裕がありません。今回はこれで失礼します。

 

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 このブログで何度も書いている断捨離のことを今回も書きます。これまで書いたように、処分しているのは本だけではありませんが、本の中でも冊数・分量が特に多く、また感情的にも処分しにくいのが『明治文学全集』(筑摩書房、全100冊)です。この全集は1960年代から刊行が始まり、完結したのは私の大学院生最後の年、1989年でした。

 私は今では村上春樹研究とテレビドラマ研究を主にしていますが、研究者としては明治文学研究から出発しました。研究者の卵だった大学院生時代に、どうしても必要で無理に購入したのがこの『明治文学全集』でした。無理にというのは費用的にです。大学院生だった私に、当時約30万円の文学全集はきわめて高価でした。それでも明治文学研究を志す者としてどうしても持たなければならないと思い、覚悟して購入したのでした。

 そういう貴重な全集本ですが、今ではジャパンナレッジでのオンライン配信もあり、重くてかさばる100冊全集本は古書店にも引き取ってもらえなくなりました。そうとうな覚悟を持ってこの本を購入した私にとって、「じゃあ古紙回収に」と簡単に割り切れるものではありません。それでもそれをするのが断捨離なので、写真を撮って処分しようと思います。

 ありがとう『明治文学全集』! 私の研究の出発点……。

 

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 映画『五十年目の俺たちの旅』を見てきました。少し前の話ですが、見た場所は吉祥寺の映画館。吉祥寺はテレビドラマ『俺たちの旅』(1975~1976年放送)のメイン舞台になった場所で、映画館には「聖地・吉祥寺」と書かれた主演3人のパネルが飾られていました。私はドラマ研究者、フィクション研究者ですが、今回ばかりは研究視点は外したい気がします。あのドラマの50年後が描かれた…それだけで十分嬉しく思います。

 ちなみに、映画の脚本は、本編シリーズでもメイン脚本を担当した鎌田敏夫でした。映画の脚本も、引き続き88歳になった鎌田敏夫が書いたことを、私は嬉しく思います。鎌田の脚本に不満はあります。価値観が古いと思うこともあります。それでも、本編でメイン脚本家だった鎌田が作品世界の50年後を書くなら、それはそれで受け入れようと思えます。

 ドラマは架空の世界ですが、しかし、架空の世界とわかっていてもそれだけとは割り切れません。まるで生きている人物たちであるかのように、いや生きている人物たち以上に、その人物たちを見守りたいという気持ちが強く湧いてくることがあります。そう思わせてくれるドラマの一つがこの『俺たちの旅』でした。

 『俺たちの旅』は本編シリーズの他に、10年後、20年後、30年後のスペシャル版が放送されました。カースケ(中村雅俊)が外国を飛び回って派手に活躍していたり、オメダ(田中健)が妻の実家の地域で市長になっていたりと、私には不自然に思える展開が多々ありました。それでも、この50年後を見て、その不自然もありだったなと思えました。カースケは結局町工場の熱血社長になっていましたし、オメダは市長から知事にも手が届くのにそれを捨ててかつて住んだ思い出の家に戻ります。50年後にそこにたどり着くなら、それまでのあちこちは許せる気持ちになりました。

 特にオメダ。心やさしいけど気の弱いオメダが市長になるのは、いくら妻の実家の地盤を継いだからといっても、自然な展開とは思えませんでした。しかし、人生の終りが近づいてきたときに、地位や名誉を捨ててでもかつて住んでいた家、亡き母親と妹と暮らした思い出の家に戻ることを選ぶというのは、いかにもオメダらしい選択といえます。

 そう考えてみると、『俺たちの旅』本編以降の主役はオメダだったのではないかという気がします。「人生は楽しいものだ」といつも堂々と主張するカースケよりも、50年間一貫してグズなのに女性にもてるグズ六(秋野太作)よりも、常に迷いながら、ためらいながら、時には引きこもったり家出したりしたりするオメダに、この作品らしさがより多く詰まっているように感じました。

 この『五十年目の俺たちの旅』という映画。作品としては、序盤のサスペンス調の要素やカースケの工場の話が、作品内で回収されず、十分には活かされていないような気がしました。過去の映像が整理されないままに挿入されすぎているようにも感じました。いくつか不満はありますが、そんなことはとりあえず横に置いておきましょう。またこの世界に戻って来られた。それで十分ではないでしょうか。

 

追記

私は『俺たちの旅 十年目の再会』でオメダと短期間暮らした女性(永島暎子)とその子・克史の印象が強く残っていました。この母子は『俺たちの旅 三十年目の運命』で再登場し、その時克史は難病で長期入院中でした。オメダは市長選挙への悪影響を懸念する周囲の意見を振り払い、母子を援助します。その克史が『五十年目の俺たちの旅』に再々登場しました。まだ映画を見ていない方のために内容は伏せますが、私はその場面が『五十年目の俺たちの旅』でもっとも印象に残る場面でした。

 

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 東日本大震災から15年が経過しました。このブログにも何度も書いたように、私自身は東日本大震災を経験していませんが、東北に育った人間として、この未曽有の大災害のことを考え続けてきました。また、このような未曽有の大災害を人びとがいかに記憶と記録に残そうとしているのかを、考え続けてきました。

 私のしてきたことの一つは、私の専門分野であるフィクション研究においてです。たとえばテレビドラマで東日本大震災をいかに描いているかを考えてきました。その一例が、4年ほど前に発表した「フィクション作品から考える「時間/記憶/記録」―テレビドラマ『時は立ちどまらない』をめぐって―」(中央大学文学部編『学びの扉をひらく』)です。ドキュメンタリーや報道の分野が東日本大震災をいかに記録したかも重要ですが、私自身はフィクション研究者として、フィクション作品における震災の描き方に注目してきました。

 

 

 もう一つは震災遺構の調査。これまで久慈、宮古、陸前高田、気仙沼、南三陸、石巻、仙台、いわきなどの震災遺構のありかたを調査してきました。大災害からの復興も重要ですが、復興すれば災害を忘れられるわけではありません。人それぞれに心の傷のありかたが異なる中で、どのような震災の記憶の残し方があり得るのか。私のもう一つの課題として考え続けています。

 

 

仙台市立荒浜小学校の外観と内部

 

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 NHK連続テレビ小説『ばけばけ』放送が最後の1か月に入っています。作品について評価する意見もありますが、一方で批判的な声も聞こえてきます。

 まずは面白さ。ショートコントのような笑える場面が多々設定されています。しかも、ドラマの経験豊富とはいえない主演の高石あかりが、ベテランに混ざってコメディエンヌとしても才能を発揮しているように見えます。しかし、「コントやるなら『LIFE』でやれ」(『LIFE』はNHKのコント番組)といった批判的な声も聞こえてきました。ドラマが笑えていけないことはないのですが、そういう声が聞こえてくるというのは、視聴者の中に、朝ドラには朝ドラらしい作品という期待があるのでしょう。

 「朝ドラへの期待」とは何かということは、視聴者それぞれに違うので一概にはいえません。ただ、私の中でも、過去の朝ドラに比べて物足りないと感じる部分があります。それは、「一貫した主張」「考えさせるテーマ」とでもいうべきものです。

 前作『あんぱん』には特にそれが強くありました。「反転しない正義はあるのか」というのがその主張、問いかけでした。やなせたかしをモデルとする柳井嵩もその幼なじみ(後の妻)のぶも、人生をかけてその問いを考え続けていました。その二つ前の作品『虎に翼』では、「女性の社会進出」「法律とは何か」という問いが一貫して視聴者に投げられていました。それらに比べると、『ばけばけ』を見て笑えますし、笑えるだけではなく、ほろりと泣かされることもあります。しかし、笑って泣いた後に残るものが少なく、何か物足りないのです。

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)をモデルにするのであれば、「日本の近代化と西洋」というテーマが不可欠です。ハーンは、西洋人でありながら、必ずしも西洋の側に立つばかりの人間ではありませんでした。むしろ西洋に背を向けているからこそ、日本に目を向けた面がありました。だからこそ、ハーンを媒介にすることによって、日本の近代化と西洋の関係は複数の視点から描き出せるはずです。

 『ばけばけ』では、それをハーンの妻という個人(庶民)の目から描こうとしています。それはそれで意義のあることです。ただ、『あんぱん』や『虎に翼』に比べると、笑いの背後にあるテーマが見えにくいように感じます。「『LIFE』でやれ」というのは、「面白いけど、笑うだけならコント番組と変わらない」という批判なのだと思います。

 『ばけばけ』は確かに面白いです。面白いだけはなく、泣かせる場面もあります。ですからそれで十分、という高評価もあり得ます。ただ、朝ドラにはそれ以上のものが期待される、期待する視聴者が多い、それが朝ドラの宿命なのではないでしょうか。

 

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