日本の建築は古代に唐、中世に宋、近世に明といった時代に中国文化を導入している。日本の支配者階級の邸宅では新しい様式として以降昇華していった寝殿造、書院造、数奇屋造という3つの様式が起こり、現在の「和」の根幹を成しているといえる。変化の過程では、西欧のように古い様式の否定や克服によって新しい様式が成立するのではなく、旧様式を骨子に新様式の特性を付加する方法を積み重ねていった。以下、外来の文化が日本の建築にどのような影響を与えたのか、寺院建築、寺社建築、支配者層の住宅と都市の形成について其々の特徴と共に述べる。
寺院建築は仏教という宗教のもとに生み出された建築で、仏教思想を表現し、その研学や信仰の空間となってきた。日本における仏教は南都六宗と称される顕教に始まり、平安時代に天台宗や真言宗などの密教が伝わり、そこから末法思想や浄土信仰が生まれた。さらに平安末から鎌倉時代に、浄土宋や浄土真宗、時宗、日蓮宗などが開かれ、大陸からは禅宗が伝えられて中~近代を通じて発展した。その過程で、神道や陰陽道、民間信仰などを習合し、仏教は日本的な宗教へと変貌を遂げた。この信仰の空間として創造を重ねてきたのが寺院建築である。当初は大陸から伝えられた意匠や構造であったが、奈良・平安時代を通して日本の風土や好みに合わせ国風化が進められた。鎌倉時代に入ると大陸から新たな様式が再び移入されると共に在来の様式に影響を与え、多彩な造社が可能となった
6世紀中ごろに百済から正式に仏教が伝えられ、容仏派と排仏派の抗争を経て、本格的に寺院の造営が始まった。法興寺(飛鳥寺)が推古4年(596年)に竣工したのに始まり、聖徳太子が発願した四天王寺や法隆寺が創建された。当初は純粋に形態を伝えることに主眼が置かれたが。やがて日本に風土、志向に合った建築へと変化始めた。例えば法隆寺の様式は中国における隋や唐、それ以前の様式を組み合わせたものであったし、その20~30年後の天平2年(730年)に造営された薬師寺東塔に見られる様式は唐の様式が採用されたものであったが、平安時代に入ると、天平の様式を基本に国風化が進行し、奈良の軸太で力強い建築に代わって、繊細で優美な意匠の建築が生み出されたのである。構造的にも日本の多雨な気候に対応する為に野小屋を生み出すと共に垂木割や組物配置などを整然と構成し、均整の取れた精美な意匠を目指した。この時代にはさらに小乗戒の思想による教学の研究組織である奈良仏教に替わり、基本的な姿勢を大乗仏教、救済の仏教とした天台宗と真言宗が伝えられた。両宗の建築は平地においては南部以来の流れを継いだが、山岳に措いては独自色を発揮した。伝来した仏教が古来からの山岳進行と一体化して咀嚼され、建築も大陸風から日本的なものへの変化を遂げたといえる。また、仏教は怨霊・御霊信仰と相まって呪術化を進め本地垂迹説を確立し、されに末法思想を契機として極楽往生を願う浄土信仰へと展開した。その中で藤原道長や白河上皇などの有力者は競って寺院を造営し、浄土教建築を生み出し、穏やかで優美な平安の和洋建築を完成させたのである。
その特徴は、基壇の上に礎石を置き、その上に胴張の柱(初期の頃)を立てた。柱は、貫によって結ばれ、柱の上には組物が乗っており、深く重い軒を支えている。屋根は、本瓦葺きでそりがつけられている。木は彩色されていて、柱-赤・小口-黄・連子窓(れんじまど)-緑、と鮮やかに塗られている。全体的に曲線を多用している。
鎌倉時代に入り、武士によって幕府が開けれると、仏教はさらなる広がりを見せる。禅宗の伝来と浄土宗など新宗派の開宗、そして旧仏教の復興である。建築においても、新鮮な意匠や合理的構造を持つ新たな様式が伝えられた。禅宗による禅宗様と、念仏聖重源による大仏様である。禅宗様とは、禅宗と共に宋の建築様式が伝えられ、宋教と一体となって発展、普及したものであり、唐様とも呼ばれる。渡宋3度の経験を持つ中国仏教聖地の巡礼僧であった重源が、南宋の様式によって東大寺大仏殿の再建にあたった際に採用された様式を指し、天竺様とも呼称された。他の仏教建築より部材が細く、引き締まった感じを受ける建築で、具体的な特徴は以下のとおりである。
・基壇の上に建ち床を張らない
・柱に粽があり、下に礎盤を置く
・組物は、詰組
・海老虹梁を用いる
・扇垂木
・拳鼻
・外陣は化粧屋根裏、内陣は鏡天井
大仏様の特徴が架構や細部だけなのに対し、禅宗様は、禅宗の教義に基づき、伽藍配置や、建物の平面・構造、細部意匠などすべてにわたり特色があるといえる。
大仏様は構造自体を意匠として見せる大胆な建築様式であり、初めての採用が東大寺の再建の時といわれている。それまでの仏教建築にはない豪快な表現で、太い柱と柱に差し込まれた貫によって大規模な建築に適した構造になっている。材料は、規格されていて工期を短くするための工夫がされていた。細部の特徴を羅列すると以下のようになっている。・貫を用い長押を使わない
・挿肘木は左右に広がっていない
・組物の間に遊離尾垂木
・隅扇垂木
・木鼻
・一軒、鼻隠板で垂木の小口が見えない
・化粧屋根裏
・虹梁は円形で太く釈
・杖彫をつける
・出入り口に桟唐戸を付け藁座で固定
だが、大仏様は急速に衰退していく。その背景に政治的な要因があるが、そもそも、東大寺に大仏様が採用されたのは、源頼朝が藤原氏を意識して、再建を任命された重源はあえて大陸からの新様式を採用したからであった。豪快な意匠も日本人の好みとは違っていた。但し、合理的で構造上優秀な技法は他の様式に吸収されていった。
禅宗様は複雑で緻密な構造を持ち、上昇感のある空間をもたらしたが、和様はその両者に影響されて新和洋を確立した。
和様の特徴は大仏様・禅宗様という二つの新様式が登場した鎌倉時代に、伝統的な手法を整備した様式である。床が存在し、「六枝掛」という合理的な設計方法を採用している。・基壇がなく、亀腹があり礎石も自然石を使用
・床縁(切目縁が多い)
・柱は、母屋・庇は円柱、裳階(もこし)は面取り方柱
・簡素な蟇股(かえるまた)
・軸組は、長押と頭貫で固定
さらに意匠と構造の両面で複合化を積極的に進め、折衷様を誕生させた。宋様式の導入により建築の中心が移ったかの様に思うのは錯覚であり、実際にもその中心的役割を果たしたのは和洋であった。そして、あくまでもその和洋を軸にしながら、外来の新様式を吸収し、構造的にさらに堅牢で新しい意匠感覚のある建築を、その結晶として創り出していったのである。
次に寺社建築であるが、弥生時代末から古墳時代、中国大陸の特に東南アジアから高床の稲作文化が流入し、新しい住環境である床の発生をみた。これが高床式住居であり、さらにこれが発達の極みに達したものに寺社建築があると考えられている。
仏教が日本に伝わってくる以前の建築とは、特徴として柱は、円柱で地面に直接刺さっている堀立柱となっおり、棟を直接支える棟持柱がある。屋根は、基本的には茅葺き(檜皮葺きもある)で千木(ちぎ)や竪魚木(かつおぎ)が採用されていた。材木は桧の素木(しらき)が一般的で。床は、高床になっている。 素朴で明快な構造であった。
平安時代になると、神仏習合思想の広がりと共に、寺社建築は仏教建築の影響を強く受けるようになる。その基礎となる建築形式は古代の寺社建築を引き継ぐものであったが、平面構成や立面の処理、意匠に新しい手法が導入されることで、様ような社殿形式が生み出された。中世以降も、寺社建築は仏教建築や住宅建築の技術や手法を古代以上に積極的に用いている。確立された形式の墨守は神社建築のもっとも特徴的な面であるが、その制約の中であらゆる面に新しい技法が導入されたのである。そうして生まれた寺社建築は、自由で伸びやかな雰囲気を今に伝えている。
最後に支配者層の住宅と都市の形成としてはまず、飛鳥・奈良時代に当時の隋、唐の失進構造が朝鮮半島を通じて渡来した影響が挙げられる。それらをモデルにして造られたのが、平城京、平安京であり、基盤目状に整然と配した都市計画がはじめてなされ、そこに本格的な隋、唐の住様式が導入されていった。奈良時代末から平安時代になると、貴族の住宅としての寝殿造りが形成された。
寝殿造とは、平安時代の貴族は、寝殿と呼ばれる主屋を中心とした住宅形式に住んでいた。この形式を寝殿造と呼ぶ。敷地の規模は1町(120m)四方が標準だとされています。寝殿の全面には広い庭があり、ここが儀式や舞の場となった。さらに南は、池が掘られており舟遊びができるようになっていた。寝殿造の建物は現存しないので発掘調査から平面を判断するが、立面や内部の様子は分からないので、「年中行事絵巻」などの巻物から判断する。その結果、寝殿と対屋はほぼ同じ平面で、板敷に置畳としとねをしいた座の生活とだということが解っている。寝殿の中で寝室になっているものは塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる小さな箱の中である。これは、風通しが悪く夏場は塗籠の外にでて寝たという記録もある。
主殿造とは、主殿を中心に、台所・厩(うまや)などを配した中世の武士の住宅にみられる様式である。配置は、左右対称でなくなり新しい夫婦のために増築もするようになった。寝殿造では天井がなかったが、中世になり天井が張られ間仕切りが比較的自由になった。また、室内に畳を敷き詰めることが多くなり、次第に敷きつめが一般的になっていった。寝殿造の塗籠は、納戸に変わり外から鍵がかけられるようもなった。
鎌倉時代には宋から禅宗が導入され封建社会の武家文化が徐々に成立すると同時に住様式にも変化が起こり、書院造りの新様式が形成される。その室内には床、棚など様ような装置が形成されたが、これらに唐物を飾るという作法は接客の基本として重要視された。書院造の特徴は、主室に座敷飾りの床(とこ)・違棚・書院・帳台構を備えた建物の様式である。柱は四隅の面を取った角柱で、畳を敷き詰め、建具は引き違いになっている。内部は完全な「部屋」に別れ(主殿造りまでは、間仕切りをしていても上部が開いていた)ている。平面は、対面の作法が大きく変化したためそれに伴い様変わりしていた。中世までは、南面中央の部屋で庭に向かって客が座り、出迎えた主人は、庭側に対峙していた。近世になると対面が2~3室にまたがり、相対的な位置関係が格式によって細かく決められるようになり、主室は南面の一番奥になった。
中国から伝来した喫茶の風習は、桃山時代になると、いわゆる草庵風の茶として発展した。それは千利休を経て完成されたが、その際茶の湯は和敬静寂を重んじる詫び茶となり、建築はもとより茶道具、花入、書画を総合化して、日本独自の芸術に昇華した。
寝殿造り書院造りと古代から中世に渡って大きく様式を変化させてきた日本住宅は、近代に入るとさらに様相を変えた。わけても徳川幕府は300年の太平の世が続き、江戸、京、大阪といった3都の発展があって、様ような都市施設が成長した。そこでは長崎を通じて南蛮、紅毛や中国明の舶来文化を導入、そこで新たに流行意匠を育て、奇想性に富んだ数奇(好み)の変化を多様に求め、やがて数奇屋造の新様式を形成するに至ったのである。