ミミ    伊勢神宮を舞台にした レース 

 
      これは うさっ娘 史上 何と言えばよいか
 
うさ子   大阪弁やったら  どないもこないもいかんわい と云うんじゃ 
 
はな    よう あんなえげつないのんさすな  とも云うで 
 
うさ    こりゃ はなえもん  えげつない目におうたんは  わしじゃ
 
ごま    しかし お姉ちゃんは世界最強なんですね ある意味 尊敬しましたよ
 
ミミ    うささんは うさ子さんの最後の弟子ですから当然といえば当然ですよ
 
ごま    じゃあ ミミさん 愛桜さん と 美柳さんは どうなんですか
 
ミミ    そうね  最初で最後かな この姉妹に匹敵する娘はいないでしょうね
 
れおん   源三さん そうらしいですよ
 
源三     まさか こんな才能があったなんて ミミさんには感謝しかありませんよ
 
ごま     これも 旅に出た結果ですよ
 
         愛桜さんと美柳さんには別府温泉も期待していますからね
 
愛桜    それもこれも うさ子さんの懐の深さのおかげですよ
 
美柳    そうですね リーダーがいなければ今の私達はありませんでしたからね
 
ミミ    こんなんにも 感謝を忘れないとは 本当に良い娘さんですよ
 
うさ    師匠 らしいでっせ
 
うさ子   そうか わしゃアホやし よう解らんわ
 
れおん   こげな会話を延々と続けても意味がありませんので
 
 
ミミ    皆さん お久し振りのこのコーナー  地名の由来のコーナーです
 
      さて この物語も三重県から 次は奈良県へと向かいます
 
      ただ 進行上 京都府に行くかも知れません が
 
      今回は 散々お騒がせしました 三重県の地名の由来もを紹介します
 
      最初からお伝えしていますが 近鉄沿線は日本の歴史そのものです
 
      神代の昔の神話 日本書記 古事記 の世界となるのです
 
      今回は 表記の題にもありますが 日本書記 古事記 を紹介します
 
      但し 今回は ヤマトタケルの東征 以後の紹介となります
 
       アホなオッサン 頑張って書きました 余計な突っ込みは止めて下さい
 
       まともに返答 出来ないのは火を見るよりも明らかですから
 
       それでは 始めます
 

 

三重県の 三重 の地名の由来

 

これは  白鳥伝説に記されています

 
武勇でその名を馳せる第12代景行天皇の皇子 ヤマトタケル
 
 
   (物語)

 

景行天皇は、再び倭建命に命じました。

「東の国はまだ荒ぶる神々が騒ぎ立て、反乱を起こしている。行って平定してきなさい。」

倭建命は、命令を受け、伊勢のやまと姫のもとを訪ねて言いました

倭建命    西の方の悪者を従わせ、まだどれほどの時も経たないのに、


             今度は東の方へ行けという。

 

                     父は私に死ねばよいと思っておられるのか。

涙を流す倭建命に、姫はアメノムラクモノツルギと袋を渡しました。

 

アメノムラクモノツルギ (天叢雲剣) とは、八岐大蛇の尻尾から出てきた剣です。

 
(天叢雲剣 は スサノオが高天原のアマテラスに献上しました)


やまと姫    もし、危険なことがあれば、この袋を開けなさい。

  

                                   気持ちを引き締め、油断をしてはいけません。

 

                             (ここまで)

 
 やまと姫  倭姫命(やまとひめのみこと。生薨年不明)
 伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎宮となったと     されます。
 
 出立前の経緯、古事記では悲観的に伝えられていますが、日本書記では異なります             
 
 当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまいます。
 
 かわりに日本武尊が立候補するのです。
 
 天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させま
 す。
 
 日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜るのです。
 
 日本武尊は尾張の国を越え、駿河の国に着きました。
 
 古事記では、倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売(宮簀媛)と婚約をして
   東国へ赴く。
 日本書紀では対応する話はありません。
 
    (物語)
この国の賊達は、倭建命にすっかり従う様子を見せて、だまし討ちを考えていたのです。
命を広い野原に連れ出し,言いました。

盗賊    この野原の真ん中に、沼があります。そこに住む神は全く乱暴者です。
          あなたの力で、沼の神を退治して下さい。安心して暮らせるようにして                    下さい。

命が 弟橘比売命と一緒に野原を進んでいくと、辺りは誰もいなくなりました。そして、周りから火が燃えだし、またたく間に迫ってきます。熱と煙で苦しくなります。もうだめかとあきらめかけたその時、やまと姫からもらった剣と袋を思いだしました。まず、剣で草を刈り、火が移らないようにしました。そして袋の中の火打ち石で、刈った草に火をつけました。火は燃え上がり、逆風に煽られ、賊の方に燃え広がりました。命は逃げる賊を追いかけ、討ち殺してしまいました。
 
倭建命    草をなぎ払い命を守ってくれたこの剣、 草薙剣  と呼ぼう
 
       このあたりを、焼遣(やきづ=焼津) 焼津  と呼ぼう
 
                            (ここまで)
 
  この物語は一般に書かれているものです
 
  内容は 古事記に基いていますので 倭建命 と書きましたが 日本武尊 と書        いている場合もあります
 
  日本書記と古事記を混同しているのも見受けますが 
  一般には これで良いのかも知れません
  興味を持ってもらうには 別に堅い事を云う必要もないのでしょう
 
  古事記では相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻        めに遭う。
  そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を刈        り掃い、
  迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)とい        う。 となり
  日本書紀では駿河が舞台で内容は大筋で同じです。が焼津の地名の起源を示して        います。
  本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はありませ            ん。
  注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明しています。
 
  鉄道唱歌 第1集 東海道編の22番の歌詞の中に 
  鞘より抜けておのずから   草なぎはらいし御剣の  との記述があります
  国文学者である、 大和田建樹先生は「日本書記」を参考にされたと考えます。
 
  また、火打石を叔母に貰った記述はありません。
 
草をなぎ払って難を逃れたことにより この剣が 草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったものとしている。 そしてこの辺り一帯を焼津と言われるようになりました。
なお 草薙剣は日本武尊の死後、伊勢神宮に戻る事なくミヤズヒメ(ヤマトタケルの妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けました。これが熱田神宮の紀元であり、現在も御神体として祀られています。
天智7年(668年)僧 道行によって盗まれその後は宮中に留め置かれた。ところが 朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり 剣は再度 熱田神宮に祀られることになった。熱田神宮には「酔笑人神事」といってこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ神事があり 草薙剣が本来 熱田神宮の神器であったことを伺わせます。
 
草薙の剣 (くさなぎのけん) 八咫鏡 (やたのかがみ) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
 
三種の神器 (みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ)) は古事記では
天孫降臨の時に 瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト) が天照大御神から授けられたと言われる
鏡・玉・剣 の事です
日本書記では 三種の神宝(神器)を授けた記事はありません
第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」とあります
神話に登場した神器と同一視される 三種の神器(宝物)は歴代天皇陛下が継承されてきました
ただ 皇族はもとより 天皇陛下でもその実見はなされていないとされます
 
 
 さて、 今回は白鳥伝説に至るこの後の経緯を紹介します。
 
 古事記では、相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こしま         す。
 
 走水(はしりみず)の海 とは、「浦賀水道」です。日本書記では、馳水と書いて     います。
 
 
   相模から東へお進みになって、走水海をお渡りになる時、 
  その海峡を支配する神が怒って大波を立て、船をくるくる回して、
  倭建命は先へ進むことができなくなってしまわれた。
 
 
 倭建命の船は進退窮まります。 弟橘比売命が自ら命に替わり入水すると、波は自    ずから
 凪いたとされます。
 弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入ったので    す。
 
 
   この時、その后の弟橘比売命という方が、
  「神の怒りをしずめるために、私が皇子の身代わりとなって海にはいりまし      ょう。

   皇子は命じられた東征の任務を成し遂げて、天皇に御報告なさいませ。」

   と進言して、海にはいろうとなさり、や皮や絹の敷物を何枚も重ねて
   波の上に敷いて、その上に神の妻としてお降りになった。
   するとその恐ろしい荒波も自然に静かになって、御船は対岸に進むことが      できた。
 
        皇子  みこ   皇太子の事
 
 入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠みます。
 
 原文      佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
 
         さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 
                 火中(ほなか)に立ちて問いし君はも
 
       さねさし の相武の野原に燃え立つ火の その炎の中に立って
       私の安否を尋ねてくださったわが 夫の君よ
 

 

 

 

 

 

 七日後、比売の櫛が対岸に流れ着き、御陵を造って、櫛を収めました。

 

 日本書記では
 さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。
 海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよ         う」と言われ、
 海神(ワダツミ)の怒りを買ったのです。
 海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなか     った。
 穂積氏の忍山宿禰の女である弟橘媛。皇子につき従っておられた妾です。
 弟橘媛は、皇子に申されました、 「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうで     す。
 これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」
 そして、言い終わるや波を押し分け海にお入りになられたのです。
 暴風は直ぐに止み、船は無事に岸に着いたのです。
 時の人は馳水(はしりみず)(浦賀水道)と、その海を名づけ言った。
 この後、日本武尊は上総より陸奥国に入られました。 大きな鏡を船に掲げ、海路     をとり、葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られました。
 
 蝦夷 (えみし) これは現在の 福島県 会津盆地  宮城県 仙台平野 と考     えれられます
 
 日本書記では和歌の記載はありません。
 
 この先を書けばまた長くなり 中途半端なところで終わりますので今回はここまで     です
 
 最後に 東征のルートです
 
 
 古事記
 
 倭 - 伊勢 - 尾張 - 駿河 - 相模 走水 - 上総(かみつふさ)      - 常陸 新冶
 
 (ひたち にいばり) - 筑波 - 相模足柄 - 甲斐 - 科野(しなの)      - 尾張 -
 
 近江伊吹山 - 伊勢能褒野(のぼの)
 
 日本書記
 
 倭 - 伊勢 - 駿河 - 相模 馳水 - 上総 - 陸奥(みちのく) -   日高見 -
 
 常陸 新冶 - 筑波 - 甲斐 - 武蔵 - 上野(かみつけの) - 碓日     坂(うすいさか)
 
 - 信濃 - 美濃 - 尾張 - 近江伊吹山 - 伊勢能褒野
 
 
  それじゃあまた逢えたらいいね
 
               うさうさ  うさ子