シベリア抑留(シベリアよくりゅう)とは、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)末期にソビエト連邦軍の満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)侵攻によって生じた日本人捕虜(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)を、主にシベリアやモンゴルなどに抑留し、強制労働に使役したことを指す。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働に従事させられたことにより、数多くの抑留者の命が失われた。このソ連の行いは、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背いた違法行為であった。1993年に来日したロシアのエリツィン大統領は、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と謝意を表明した。

目次 [非表示]
1 経緯
1.1 ソ連軍侵攻
1.2 収容所での生活
1.3 日本側の対応
1.4 帰国
1.5 抑留理由
2 犠牲者数
3 補償問題
3.1 国家賠償訴訟
4 シベリア抑留に関連する作品
5 関連団体
6 経験した著名人
7 脚注
8 関連項目
8.1 抑留中に起きた事件
9 外部リンク


経緯 [編集]
ソ連軍侵攻 [編集]
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ会談に基づくものであった。

樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

満州でも8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥は8月19日に停戦交渉に入って[1]、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍の崩壊した後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。

占領地域の日本軍はソ連軍によって武装解除され[2]、9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は57万名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には200万人以上[3]とも言われる。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[4]。

収容所での生活 [編集]
帝政ロシア時代より、シベリアは流刑の地として使用されており、政治犯などがシベリアへと送られていた。ソ連成立以降の「シベリア送り」は、国内でも反革命分子とされた人間に課されたもので、建国当初から行われていた。日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。日本人のほか、200万ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、イタリア、少数ながらスペイン、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも送り込まれていた。このほかソ連国内で反体制分子と疑われた人物や、共産党内の権力抗争に敗れた者なども混じっていた。

一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際にはモンゴルや中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパロシアなどにも送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。

シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[5](犠牲者数に関しては後述)。

一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった反面、将校クラスではそれが少なかった。共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った(死者も出たという)。

日本側の対応 [編集]
当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという[6]。 左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。

日ソ共同宣言をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。

帰国 [編集]
1947年(昭和22)から日ソが国交回復する1956年(昭和31)にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。しかし様々な事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、など)で帰国をせずにソ連に残留して帰化した人、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した人までいる。

一方、兵卒や下士官を中心に、抑留中の教育によって共産主義に感化された者が多数おり、占領軍による1950年(昭和25)からのレッドパージも、帰国事業が本格化してから彼らの存在を危惧したことが遠因となっている[7]。しかし、多くは帰国後も共産主義に固執しつづけたわけではなく、しだいに政治活動からは身を引いていった。しかし、日本の公安警察は“共産主義の脅威”を理由に彼等を監視下においた[8]。

冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。

抑留理由 [編集]
ソビエト連邦の独裁的指導者ヨシフ・スターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない。」というものであったが、日本占領政策にソ連の影響力を強めようとする策略だったと考えられる[要出典]。しかし、トルーマンはこれを一蹴したため、「その代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、この理由はソ連の捏造の可能性が高いという説もある(国際政治学者瀧澤一郎の見解)。

犠牲者数 [編集]
日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されている。ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[9]。従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もある[要出典]。

補償問題 [編集]
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰ればその捕虜の所属国が支払うことになっている。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府はそれを理由に賃金を支払わなかった。1992年以後、ロシア政府は労働証明書を発行するようになったが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。

シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、2006年10月に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせた。

国家賠償訴訟 [編集]
シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された[10]。

シベリア抑留に関連する作品 [編集]
『国が燃える』主人公の本多勇介が抑留された。
『岸壁の母』
『極光のかげに―シベリア俘虜記』高杉一郎・岩波文庫 ISBN 4003318315
『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』内村剛介・講談社 ISBN 4061982605
『プリンス近衛殺人事件』V.A.アルハンゲリスキー・新潮社 ISBN 410540301X
『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹
『収容所から来た遺書』辺見じゅん・文藝春秋 ISBN 4167342030




葛根廟事件
2010-05-03 14:00:06

テーマ:歴史 ロシア
葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年(昭和20年)8月14日、

満州国興安総省の葛根廟において、

日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍によって攻撃され、

1000名以上が虐殺された事件です。



ヨシフ・スターリン




1945年(昭和20年)8月9日未明、

ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦を布告。

ソ連は満州国、朝鮮半島、樺太(サハリン)などに侵攻を開始しました。

8月10日と11日、興安が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ壊されました。

11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、

興安総省参事官浅野良三の指揮の下、行動隊が組織されました。


行動隊の当初の目的地は100キロ離れたジャライトキでしたが、

12日からの降雨や興安国軍による馬車の略奪などにより計画を変更、

興安街の南東約40キロに位置する葛根廟を経由し列車(白阿線)

で白城子(現在の吉林省の白城)へ避難、

そして白城子で日本軍の保護を受け列車で更に南下するという計画を立て、

徒歩で移動を開始しました。

8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、戦闘中のソ連軍戦車部隊が行動隊に対し攻撃を開始、

間もなく行動隊は壊滅し、非武装の女性、

子供を含む1000人以上が死傷しました。


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スターリンに虐殺された日本人
2010-05-02 21:00:52

テーマ:歴史 ロシア
1945年8月、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、

日ソ戦終了後、満州と北朝鮮を占領しました。
スターリン・ソ連軍は日本人民間人の日本への帰国を禁止、
ソ連軍は、北朝鮮占領後、満州と北朝鮮との国境の町、

丹東市から韓国のソウルまでの鉄道の利用を、

日本の民間人には認めませんでした。


ヨシフ・スターリン


ソ連軍は、日本人民間人の保護は行わず、
逆に日本人民間人に対し、強姦、殺戮、奴隷狩り、
暴行、略奪を行いました。

国際法では、軍隊は民間人を虐殺、暴行してはならないと規定されています。

これは、明らかな、ソ連の戦争犯罪です。


この極悪非道なスターリンのソ連軍の人道に反する行為が、
戦闘中及び戦闘終結後の満州・北朝鮮において、
1945年から1946年に、

日本人民間人が25万人以上死亡した原因です。



特に開拓団の母子老人家庭避難民は、

地獄さながらの状況に置かれていました。
冬期間は飢餓、伝染病、栄養失調、極寒、

などで死者の出ない日はありませんでした。


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ソ連の日本人強姦犯罪
2010-05-02 14:00:06

テーマ:歴史 ロシア
「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。
2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、
日本婦人の全部は強姦せらる。
(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。



「高松宮日記 第八巻」 中央公論社



テーマ:歴史 ロシア
アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証-シベリア抑留」によれば、

確認済みの死者は25万4000人、行方不明・推定死亡者は9万3000人で、事実上、約34万人の日本人が死亡したと言います。



収容所へ連行さされる日本人


1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もあります。

抑留以外では、民間人の中には逃避行の最中、

ソ連軍に襲われ、殺されたり、凌辱を受けた女性も数多くいました。
ソ連側が食料供給など保護措置をとらなかった事から、飢え死にした人も続出、東満州では、避難路に延々と日本人死者の屍が放置してあったといいます。
 

ウズベックスターン・アングレン収容所跡地


中でも満州奥地から避難した開拓民達は、

避難しきれずに路中で集団自決したり、

ソ連軍や匪賊と化した地元民により、略奪、暴行、殺人、

強姦などの仕打ちを受けました。


内科医の西岡昌紀さんは自著、

「ソ連軍が満州に侵攻した日から60年目の日に」において、
「ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を破って、満州に侵攻した。

そして、侵攻した先々で、子供や老人を含む、

多くの日本の民間人を、無差別に殺戮したのであった。

また、子供を含む、多くの日本人女性を、やって来たソ連軍の兵士たちは、

至る所で、強姦、輪姦したのであった。その際の悲惨な状況は、

原爆とは形が違ったものの、この世の生き地獄と呼ばれるべきものであった」
 

「ソ連崩壊後も、日本のマスコミの多くは、

なぜか、このソ連軍の満州侵攻による悲劇を、語りたがらない。

若い人たちは、本書を含めた単行本をひも解いて、

当時、日本の子供や女性が、

ソ連軍によって、 どれほどむごい目に遭わされたかを知ってほしい」
と記しています。


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ノモンハン事件 2
2010-02-04 16:00:13

テーマ:歴史 ロシア
ロシア軍管区司令官代理ジューコフ中将は、

6月2日モスクワに出頭し、直ちに現地に赴くよう命令を受けました。

現地に到着したジューコフ中将は、

「ハルハ河東岸地帯を固守し、同時に縦深からの反撃を準備する」

という計画を発表、これを受けた国防人民委員会は、

消極的なフェクレンコ第57狙撃軍団長を解任し、

ジューコフ中将を新たな軍団長に任命しました。

動員した兵力は、自動車化狙撃師団1、狙撃師団2、自動車化旅団1、

戦車旅団2、装甲車旅団3、砲兵聯隊4、飛行旅団2、

飛行聯隊6にのぼり、ジューコフ中将の要請を大きく上回る大兵力でした。




日満側が、兵力派遣の都度一段落すると戦場から撤収するのに対し、

ソ連・外蒙側はいっさい撤収する事なく、大兵力を投入してきました。

6月中旬になると有力な戦車を伴って満州軍警備隊を駆逐し、

積極的な行動を見せるようになりました。

19日には戦略要点であるカンジュル多数廟付近を攻撃、

多数のガソリンを炎上されるに至りました。

小松原師団長は防衛の責任上侵入してきたソ蒙軍を徹底的に撃砕し、

事件の解決をはかろうとして関東軍宛てに意見具申を行いました。



関東軍はこれを受けて直ちに攻撃準備に移り、

引き続き西北防衛司令官である小松原中将の第23師団を中心に、

第2飛行集団(儀峨徹二中将)、

第1戦車団を基幹とする安岡支隊(安岡正臣中将)、

第7師団から歩兵第26聯隊(須見新一郎大佐)等を増強、

小松原中将の指揮下に入れました。

関東軍は、戦車部隊をも投じて徹底的に反撃し、

日本軍の重大決意を示す必要がありました。

作戦計画は、安岡支隊をもってハルハ河右岸の敵を攻撃させ、

師団主力はこれと時期を同じくしてフイ高地付近よりハルハ河を急襲渡河し、同左岸地区において深く敵の左側背に進出し、

越境ソ軍を撃滅しようというものでした。


ソ連の首都モスクワでは、
日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使と、

ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で、

停戦交渉が進められていました。

両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日でした。

停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、

最終的な国境線の確定はその後の両国間の外交交渉に委ねられたのです。




ソ連崩壊後、明らかにされたソ連の内部文書によると、
ソ連の損害は、25565名、日本の損害は17405名でした。



戦車戦でソ連軍は、日本軍の速射砲・高射砲の餌食となり、

ソ連戦車は、約800台が破壊されたのです。



日本戦車の損害は、わずか29台でした。
ノモンハン事件は、日本側の勝利と言えるでしょう。

航空戦でも、ソ連のイ15、16は、一部は

、布張り飛行機にほかならず、

日本の九七式戦闘機に対して全く太刀打ち出来なかったのです。

ソ連の戦闘機は、1673機もの損害を出しています。
日本側の損害は、179機にすぎませんでした。


日本軍は、基本路線として不拡大方針をとっており、

結果として国境を越えようとしてきた30万のソ連軍に対し、

日本軍将兵は、3万の兵力で戦い、

ソ連のあまりの兵力の大きさに、戦力の逐次増強を図り、

最終的に約6万の援軍をノモンハンに送りました。

30万の機甲化軍団を、わずか3万の兵力で粉砕された事を知った

スターリンは、慌ててリッペントロップを通じて、

ヒットラーに停戦の仲介を頼み込んだのです。



大東亜戦争末期、ノックアウト寸前の日本に対して、

ロシアは日ソ中立条約を破り、火事場泥棒のように日本に侵攻しましたが、

ノモンハン事件や日露戦争など、まともな戦闘では、

日本はロシアに負けた事はないのです。



ソビエトの戦争犯罪
2009-07-15 11:01:33

テーマ:歴史 ロシア
1945年昭和20年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破り、

満洲へ侵攻してきました



8月12日、東安省哈達河開拓団が避難の途中ソ連軍に取り囲まれ、

婦女子421名が集団自決するというような悲劇が起きました。



集団自決と言うと、日本を悪く宣伝する人は軍部を云々と言う人がいますが、

強要されたわけではありません。

そして、実は日本人だけが自決したのではないのです。



ドイツにおいても、ベルリンでソ連軍によってレイプされた犠牲者は13万人。

そのうち1万人が自殺しています。全ドイツで少なくとも200万人が

レイプされたと言われています。

ドイツの男性も捕虜としてソ連へ強制連行され、生きて帰ってきたのは、

3分の2です。



日本人も捕虜となり、シベリアに200万人と言われる人々が

連行され、強制労働させられました。死者は40万人と言われます。



日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明しましたが、

ソ連は日本降伏の8月15日以降の8月16日には日本領南樺太へ、

8月18日に千島列島へも侵攻して占領したのです。

既に降伏をしている国に侵攻したソ連の罪は隠せません。

これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ会談に

基づくものですから、アメリカとイギリスにも責任があります。



日本政府はこの国際法違反、

ハーグ陸戦法規違反の戦争犯罪を強く訴える必要があると思います。



何故なら、このような明らかな戦争犯罪に対し抗議しなければ、

結局「正義」も「国際法」もなく、ただ戦争に勝てばよい、

勝てば官軍である、人間とは知性のない生き物だという歴史が

続くと思うからです。戦時においても、やって良い事、悪い事は守るという事が定着しなければ、人類はいつまでも野蛮なままです。



人類が戦時においても正義や知性を考えるようになれば、

将来戦争さえなくなるかもしれません。