子どもたちはもう家を出ているのに、

家の中には、

ずっと“子ども中心”の配置が残っていました。

 



数年前から少しずつ整理をして、

今は、

夫婦二人に合う量と、

自分が心地いいと思う配置に変わってきています。

 



今日、

お昼ごはんを食べながら、

風に揺れる洗濯物を見ていました。

 



光が入って、

静かで、

ただそれだけなのに、

「ああ、ちゃんとここに居るな」と思った。

 



目の前にあるものが、

自分で選んできたものになっている感じ。

 



自分の感覚で整えてきたものの中に、

自分が居る感じ。

 



まるでリゾートみたいだなと思ったけれど、

食べていたのは納豆でした。


 

 

 

 

 

ほんの小さな違和感が残ることがあります。



たとえば、

久しぶりに実家に行った帰り道。


いつも通りのやり取りで、
大きな問題があったわけでもないのに、

なぜか、少しだけむなしい感じが残る。

 

 

 

大きく気持ちが揺れるほどではないけれど、
少しだけ引っかかるような感覚。


でも、それはとても小さいので、
そのままにしてしまうことが多い。

 

 

 

「たいしたことはない」
「問題というほどでもない」

そうやって、
その違和感をなかったことにして、

そのまま進もうとする。

 

 

 

そのとき、
何かが間違っているわけではないけれど、


ほんの少しだけ、

自分とのズレが生まれる。

 

 

 

一つひとつは小さくても、
そのまま進んでいくと、

少しずつ、

気づかないまま、


そのズレが大きくなっていく。

 

 


気づかないまま、


選んでいるようで、

どこかに無理がかかっている状態。

 

 

 

最初はできていたことが、
続かなくなったり、
なぜか動けなくなったり、
途中で止まってしまう。


理由ははっきりしないけれど、
どこか苦しくなってくる。

 

 

 

違和感をなくそうとするのではなく、

そのときに、

ほんの少し立ち止まってみる。



どこに引っかかりがあるのか、

何が起きているのかを、

そのまま見てみる。

 

 

 

小さな違和感は、

大きな問題ではないように見えて、
その人の中で起きていることを、

静かに教えてくれていることがあります。



気づいたときに、

少しだけ立ち止まれるかどうか。



そこに、

そのあとの流れが変わるきっかけがあるのだと思います。

 

 

 

こうした小さな違和感も、

なかったことにせずに見ていきます。

 

 

 

 

 

 

その人は目の前で話しているのに、
どこか遠くにいるように感じる瞬間があります。

 

 

自分がそうなっているときもあれば、
相手にそう感じるときもある。

 

 

 

たとえば、
とても丁寧に説明されているとき。


何を考えていて、
どうしたいのかわかっていて、

なめらかに言葉にされている。



けれど、
その言葉の奥に、


その人自身があまりいないように感じることがあります。



声は聞こえているのに、
どこか届いてこない。


少しだけ、
遠くに行ってしまったような感覚。

 

 

 

そんなときは、
説明しているその人だけが、

なんだか前に出ているような。

 

 

それを感じているはずなのに、

そこには触れないまま話しているような。

 

 

 

そのときは、
ふとした一言で、

空気が変わることがあります。



「今、それを話しながら、身体はどんな感じがしていますか」


感覚に少し意識が向くように、

少し間があって、

「……なんだか、緊張しています」と出てくることがある。




その瞬間、

さっきまでの遠さが、

少し近くなる。

 

 

 

 

何か特別なことが起きているわけではなく、

その人が、

その人のままそこに戻ってきているだけ。



言葉や思考ではなく、

今感じていることに触れたとき、

静かに戻ってくることがあります。

 

 

 

遠くなること自体が、
悪いわけではなくて、

そうなることで触れられるものが、

あるのかもしれません。




戻ろうとしなくても、

“ふとした瞬間”に、

戻るきっかけはある。



セッションでは、こうした“遠くなる瞬間”も含めて見ています。