台所に入った私は、ふわりと漂う甘ったるい香りを不審に思った。
「なに、この匂い・・・」
香りの元は小さな鍋からであった。
私はそっと蓋を開けてみる。
中には、ドロドロに溶けた茶色のモノ・・・甘い香りのミルクチョコレートが入っていた。
作業台の上にはチョコレートの包み紙。
つい最近、私が商店街の福引で当てた板チョコだった。
しまうのを忘れて作業台の上に置きっぱなしにしていたので、誰かが食べても仕方がない状態だけれど、何の為に煮溶かしているのだろう??
「・・・変ね。あ、マリアベルがお菓子でもこしらえているのかしら?」
台所から居間に戻るなり、居間でブラウスを縫う事に精を出している妹に、「ねえ、マリアベル。チョコレート菓子でもこしらえてるの?」と聞いてみる。
私の問いに、妹は驚いた顔をして手を休めた。
「それ・・・私じゃないわよ、お姉様」
「え、そうなの?」
「だって、私とお姉様は朝からここで裁縫していたでしょ。チョコレートを溶かす時間なんかないわ」
確かにその通りだ。
一緒に作業をしていたのだから、そんな暇はある訳がない。
出来たとしたら、それは魔法使いかなにかだ。
「うん、そうよね・・・。じゃぁ、お母様・・・でもないわよね」
母は朝早く、昨日までに仕立てたドレスを持って隣街に出掛けているのだ。
「まさかとは思うけど・・・お祖母様なのでは?」とマリーベルは私に目を向けた。
「・・・え、まさか・・・」
私は驚いて口に手を当てた。
私は縫いかけのドレスを慎重にテーブルの上に置いて、そっと台所に行ってみた。
すると、祖母が大きなへらで鍋の中をかき回していた。
微かに歌も歌っている。
祖母の大好きな子守唄だ。
「ねえ、お祖母様・・・何をなさっていらっしゃるの?」
問いかけても返事はない。
もう1度声をかけると、「あら・・・あなたは誰かしら?あぁ、今度新しく入った家政婦さんなのね?」と1人で納得し、また鍋の方に向いてしまった。
最近の祖母は、嫁である母や私達2人の孫を、すっかり家政婦だと思い込んでいるらしい。
家の中をあちこち徘徊して回る事はないものの、随分とボケてしまい、一日中寝ていたり、寒空の中、庭の石ころをエプロンのポケットに詰め込んでいたり、突拍子も無い事を突然し出すので、家族はハラハラさせられてばかりだった。
祖母はボケてはいるが、急にまともっぽくなって家事をしたりする。
母は、祖母が火の始末で粗相をしたら怖いからと、台所の調理器具はオール電化にしていた。
火事の心配はないのだけど、それでも、私からすると祖母が台所にいるのはちょっと怖い。
私はどうしたものかと思いながら祖母の声を掛けた・・・勿論、家政婦の振りをした。
「奥様、何をこしらえておいでなのですか?」
「え、あぁ、これが何か気になっているのね?おや・・・お前の名前を聞いていなかったね。名は何と言うの?」
「これは申し訳ありませんでした、奥様。私、ゾフィーと申します」
何度名前を言っても祖母は忘れてしまうのだが、家政婦になったつもりで、私は祖母の前で深々とお辞儀をした。
「バレンタインのチョレートを作るのよ。あの人の分と、ウィリバルトのをね。あの子はどういう訳か女の子からチョコレートをもらった事がないらしくてね。晩熟で女の子に声をかけたり出来ないから、あの子、女の子の友達がいないのよ。だから、母親である私が作ってやらなければ・・・ね」
「・・・あの、ウィリバルト様はお幾つなのですか?」
「え?あぁ、あの子は今年で12歳になるのよ。今は幼年学校の寮に入っているから中々戻っては来られないの。それにね、幼年学校は男の子ばかりだから、女の子からチョコレートをもらうのは無理でしょうしね。これをあげたら、きっとあの子は喜ぶと思うのよ。ねえ、お前だってそう思うでしょ?」
私は一瞬、顔が強張った。
だけれどゴクリと唾を飲み込む。
笑顔をしていなければ・・・。
「はい、奥様。きっとお喜びになると思いますわ。本当にお優しいのですね、奥様は」
「そうかしらねえ。・・・まぁ、私は母親ですからね」
祖母はそう言って、鍋の中へレーズンや胡桃を入れて、またちょっとかき回した。
祖母は戸棚の中にある、レーズンやクルミの在処はちゃんと認識しているらしい。
ボケたように見えて、その辺はしっかりしているのがおかしかった。
そうして、また子守唄を歌っている。
「私はまだここにいますから、お前は掃除でもしなさい、いいね?」
「はい、奥様」
祖母に頭を下げてから、そっと台所を離れて居間に戻ると、出掛けていた母親が戻っていて、マリアベルと話をしていた。
「あ、お母様・・・お帰りなさい。ねぇ・・・お祖母様が・・・」
「あぁ、チョコレート菓子を作っているんでしょう?昨日ね、作業台の上のチョコレート見て、急に戸棚を開けてね、『胡桃はあるけどレーズンがないね。お前すぐに買っておいで』と言われてね。私がもたもたして出掛けるのが遅れてしまったら、『まだ、レーズンを買いに行かないの?役に立たない家政婦はこの家から出て行きなさい』って言われてしまったのよ。それで慌てて買って来たのよ」
「・・・え、そうなの?・・・何だか、お祖母様の思考回路、50年弱は後退しているわよ。この間よりひどくなっているみたいだわ」
「50年!?それ本当なの、お姉様・・・」
マリアベルは蒼白になった。
「・・・段々、昔に戻っていくのね。そのうちに、自分の若い頃の事を言い出すかもしれないわね。それにしても、お義父様のだけではなくて、あの人の為のチョコレートを作っていたなんて知らなかったわ・・・。見ていてつらいわ」
私が祖母の様子を話して聞かせると、遠い過去へと逆行していく姿を不憫に思った母は、そっと目頭を押さえた。
「そのうちに、それすらも分からなくなってしまって、あの人の心配とかもしなくなるのかしら・・・」
「それも寂しいわね・・・。お母様、お祖母様はチョコレート菓子を作ったらどうするおつもりなのかしら。お祖父様はとうに亡くなられているし、お父様だって行方がしれないのに・・・」
「・・・あの人が行方知れずになった事を忘れてしまっている方が幸せなのかもしれないわね。あの人の姿を探している姿を見るのは本当に悲しくてつらいもの・・・。チョコレートは私が何とかするわ。・・・だから、あなた達は何も心配しないでね」
母は寂しそうに微笑んだ。
私も何とも言えない気分になって、妹と2人、神妙な面持ちで頷いたのだった。
2月13日の午後、夫と息子の為に祖母がせっせと作っていたバレンタインのチョコレートの詰め合わせが完成した。
祖母は私や妹に見せて、「ねえ、家政婦さん達も誰かにあげるんでしょう?明日はバレンタインですものね」と少女のような笑みを浮かべて、ラッピングの施された2つの包を見せた。
「奥様、ステキですね」と私は祖母を褒めた。
「ええ、本当にね。あぁ、これを早く待っている夫と息子に早く届けなくてはね・・・」
急に家から出ようとする祖母に、慌てた母が声を掛けた。
慌てて言葉を紡ぐ。
「奥様、旦那様は戦地へ行かれていますので、軍に頼んで届けてもらう事にしましょう。それに、ウィリバルト様も幼年学校においでですから、長期休暇にしか戻って来られませんわ。今日はとても寒うございますから、私が学校へ送る手続きを取りますわ。それで如何でしょうか?」
「・・・あぁ、軍と学校へ送るのね。お前が手続きを取ってくれるというの?」
「はい。責任持って」
暫く思案していた祖母は、「分かりました。それではお前に任せます」と言って包を母に渡すと、「・・・何だか少し疲れたから休みます」と言って、そのまま寝室へ行ってしまった。
「本当にどうするの、これ?」
母の手の中の2つの包を見て、妹は溜め息をつき、私は「どうしようもないわ。元々は、誰かにあげるのもなんだし・・・。第一、受け取り手がいないのでは・・・ね」と肩を竦めた。
「取りあえず・・・しまっておきましょう。腐る物でもないのだし・・・」と、母は居間の戸棚の一番上に入れた。
ここなら、足腰の弱った祖母は、椅子を使っても取り出す事は不可能だったから。
「ねえ、お母様、お姉様。こうしたらどうかしら?私達でお祖母様にお礼の手紙を書くのよ。直筆だとバレてしまうかもしれないから、ワードプロセッサーで書くの。勿論、お父様やお祖父様になったつもりで。どうかしら・・・」
「あら、マリアベル・・・それはいいわ」
「でしょう、お姉様。お礼の手紙を見たら、お祖母様、お喜びになると思うの」
「そうね・・・皆で書きましょうか」
母も同意し、私達3人は、2月の末ぐらいに、祖母に、祖父からと父からだと言って手紙を渡す計画を立てたのだった。
翌日の朝6時・・・。
「あら、お母様、いい匂いね・・・」
濃厚な鶏ガラスープの匂いに反応した私に、母は「ほら、お義母様がお好きでしょ。今朝は冷えるし・・・ね」と微笑んだ。
スープの他に、焼き立てのブロートと温めたミルクが祖母の食事だ。
我が家も父がいた頃は本当に住み込みの家政婦さんがいたのだけれど、父が行方不明になってからは、母は私達や父の母を連れ、自分の実家であるこの家に戻ってきたのだ。
そして、「昔は・・・私は自分で料理をしていたのよ」と、家族の食事の支度を一手に引き受けた。
私と妹は、そんな母の仕事を少しでも軽減させられれば・・・と思い、少しずつだけれど、料理や裁縫を覚え、3人で仕立物の仕事をしているのだ。
「お祖母様・・・最近、食が細いでしょう?私、心配だわ・・・」
「私も。ねえ、お姉様。お祖母様は果物も召し上がらなくなったでしょう?」
「そうなのよね。少しでも食べて、体力つけて欲しいのだけど」と、母は、出来上がったスープをスープ皿によそった。
最近、食が細くなった祖母は、果物を殆ど食べなくなっていた。
そして、口にするものは、ブロートとスープ、そして温めたミルクだけだったのだ。
祖母はミルクにブロートを浸して柔らかくして食べるのが好きなので、今日のスープは鳥ガラの濃厚なスープにしようと母は思ったようだ。
祖母は、自分のベッドのある部屋で食べるのが好きらしい。
「じゃぁ・・・今朝は私が運ぶわ」
私がそう言うと、母は「それじゃぁ、お願いね」と、私にトレーを手渡した。
「奥様、お食事をお持ちしました」
私が声をかけると、既に起きていた祖母はにっこり笑った。
「あら・・・誰だったかしら?」
「え・・・と」
「あぁ、家政婦さんだったかしら?」
「あ・・・はい。奥様」
私はベッド脇のテーブルに慎重にトレーを置く。
祖母は「今朝は気持ちがいいこと。ところで今日は何日だったかしら?」
「2月14日です・・・」
「そうだったわね。何か大事なイベントがあったような気がするのだけど、どうも思い出せないわ。・・・いやね、全く・・・。あぁ、そうそう・・・後で毛糸を持ってきておくれ」
「毛糸ですか、奥様」
「緑色と白、それから黄色をね。ウィリバルトにマフラーでも編んでやりたいの。この色はあの子の好きな色なのよ。ほら、あの子はとても寒がりでしょう?幼稚園でもあの子だけなのよ、もこもこに厚着をしているのは。でもね、そこがまた可愛いのよ」
祖母は優しく微笑み、反対に私は顔が引きつりそうになった。
どうも、祖母の行動と意識が・・・後退の速度が速まっているように思えたからだ。
祖母の中で、父は「幼年学校生」からほんの小さな「幼児」にまで戻っているらしい。
私は祖母のやりたいようにさせようと思い、「それでは、奥様。すぐに用意してお持ち致しますわ」と答えると、祖母の部屋を慌てて出て、母に祖母の事を知らせた。
「・・・そう、本当にそうだったわね。あの人は寒いのが苦手で、よく、昔・・・赴任した事のあるカプチュランカの話をしてくれたっけ・・・」と、チラチラと雪の降り始めた窓の外に目を向けて、母は小さな溜め息をついた。
「毛糸・・・この家にはないわ、お母様」
私の言葉に母は頷いた。
「緑と白・・・そして、黄色ね。本当にあの人の好きな色だわ・・・。まだ本降りではないから、これから毛糸を買って来ましょう・・・悪いけれど留守番を頼むわね」
母は厚手のウールのコートを羽織って、寒空の中、近所の雑貨屋に出掛けて行った・・・。
Das Ende
100のお題より、「バレンタイン」です。
2003年の8月に、私の父方の祖母が入院し、そして11月に亡くなりました。
祖母は90歳でした。
これを書いていたのはまさに2003年で、メルカッツの母と私の祖母のイメージが重なっていました。
メルカッツの年齢が、その当時の父の年齢と一緒だったからです。
ただ、祖母は全くぼけてはいませんでした。
大変だったのは、祖母は、片方の耳が聞こえなくなり、肝臓がんの影響からか、両目とも失明し、誰かの手を借りなければ、食事もトイレも、入浴もままならなくなりました。
それまで、瀬戸内海の島で一人暮らしをしていましたが、さすがに限界で、呉市内の病院に入院する事になりました。
その世話がとても大変だったのと、このままでは、母もダウンしそうな感じでしたので、私は急遽広島まで行き、呉のその病院で介護を手伝う事にしました。
病院内のコインランドリーで洗濯したり、父や叔父や叔母の弁当の買い出しに行ったり・・・大した事は出来ませんでしたが、二週間近く病院に詰めていました。
そして、メルカッツとほぼ同年齢の父を見ていて・・・。
メルカッツの親が生きていてもおかしくない、となると、祖母ぐらいなんじゃないかな・・・と考えました。
メルカッツの家族は原作には出てきません。
辛うじて、娘がいるような事を示唆する文章が書いてあった程度です。(リップシュタット戦役で、貴族連合軍の司令官を拝命する直前の箇所に書いてありました)
この物語のラストですが、当初は祖母が亡くなった後で戸棚のチョコを出して、3人で泣きながら無言で食べるというラストを設定していました。
でも、あえてそこまで描かず、祖母の意識を更に後退させるにとどめました。
それにね、シュナイダーが訪ねて来た時に、祖母は生きている設定も考えたので、この「バレンタイン」で、祖母を他界させる設定はボツにしました。
カプチュランカ・・・私は行きたくありませんが、本当に氷の世界ですよね。
メルカッツの娘はオリジナルです。
長女がゾフィーで、次女がマリアベル。
まぁ、その内に加筆修正してみてもいいかな・・・とは思います。