その日の朝・・・目覚めたのは午前6時半ちょうど。

 ベッドサイドの時計を見て僕は、「もう、朝なんだな・・・」と呟いた。


 「良かった・・・。僕は今日も生きている・・・」


 薄く眼を開けた僕は、今日も何とか生きていられた事に安堵の吐息を漏らす。


 いつもいつも、僕は不安になる。

 朝が来なかったらどうしよう・・・永遠に目覚めなかったらどうしよう・・・。

 手足が動かなくなったらどうしよう・・・口がきけなくなったらどうしよう・・・。

 耳が聞こえなくなったら・・・脳が侵されたらどうしよう・・・。

 不安で不安で・・・本当に不安でたまらない。

 そんな事を考えながら生きている10代の青年なんて、そういないのではないだろうか?

 とにかく、毎日目覚める度に、生きている事に安堵するのだ。


 僕は今、19歳だけれど、この年まで生きられたのは奇跡なのだそうだ。

 ずっと昔、僕がまだ10歳ぐらいの頃だっただろうか。

 その当時の僕の主治医は、「あと5年も生きられたら奇跡と言っても良いでしょう」と言っていたそうだ。

 あの禿げ上がって、厭らしい笑いを浮かべていた医者が言う、“奇跡”の15歳を僕は乗り切った。

 医療技術が発達し、新薬が開発されたので、僕はこうして・・・何とか生きている・・・と言う訳だ。

 ずっとずっと・・・遥かな昔には、僕のような難病の子供は5歳にもならない内に亡くなっていたそうだ。

 だから、この年まで生きられるようになった事に・・・僕は大神オーディンや、医者に感謝しなくてはならないのだろう・・・。


 僕はゆるゆると身体を動かす。
 じっとりと汗ばんだ手を握り締めて、それから、その手をゆっくりと広げてみる。

 青白く・・・細い手。

 若者の手と言うよりは、まるで老人の手のようだ・・・。

 

 完全に目が覚めた僕はゆっくりと部屋を眺めた。


 まず目に入るのはベッドから一番良く見える壁に掛けられた絵画。

 元々、この壁には・・・飾棚があったのだけど、ベッドからすぐに目が行く位置にあるので、この棚をずらして、そこに1枚の水彩画が掛けられた。
 この絵は、「文人提督」と名高いメックリンガー提督が自分で描かれた水彩画だった。


 最近、姉さんから頼まれたのだろう・・・。

 提督が僕への見舞いの品として描いて下さった物だ。

 僕はそんなに芸術が好きではないけれど、折角なので頂いておいた。

 いらないなどとはとても言えないし、提督の絵は・・・その筋では人気が高いのだそうだ。

 それに姉さんの事を考えたら、やはり貰っておいた方が良いだろうと思った。

 下手に断ったりしたら提督が気分を害するかもしれない。

 芸術家の中にはプライドの高い人が結構多いと、いつだったか本で読んだ事があったから。

 第一、提督が気分を害したりしたら、今後の事を考えても、姉さんにも迷惑になるだろう。

 幾ら僕だって、そんな事はしたくない。

 だから、提督にきちんとお礼を言って・・・絵が貰えて、とても嬉しい事を精一杯伝えたのだ。


 やがて絵から目を逸らし、窓の方にゆっくりと首を動かす。
 毎朝、僕はこの単調な動作を繰り返す。


 そして、手が動く事、目が見える事、首が動く事を確認して、安堵するのが日課といってもいい。

 普通の人が当たり前だと思っているこんな動作でも、僕にとってはとても貴重な事なのだ。
 特に今日の場合は、本当に“生きていて良かった”と、天にいる大神オーディンに感謝しなくては・・・と本気で思った。


 やがて僕は、ベッドサイドに置いてあるテーブルの上に置かれた、小さな金の呼び鈴を鳴らした。


 「おはようございます、ご主人様」


 数十秒後にノックとともに現れた侍女は、いつものようにニコリともしない硬い表情だった。

 本当はもっと若いのだろうけれど、愛想がないので、年よりも幾分も老けて見えた。

 この顔を見る度に、僕は憂鬱になる。

 彼女は、いつものように無言で重いカーテンを開ける。
 室内に朝の太陽光が差し込んだ。


 その眩しさに思わず目を細める・・・いつも室内にいるせいか、僕の目には太陽の眩しさはかなりつらいものだった。
 僕は殆ど外には出ないが、太陽の光を多少でも浴びた方が身体にはいいと医者に言われている。
 それで、僕は普段の日中は30分程度は庭で、それ以外の時間は、陽の当たる窓辺で嫌々ながらも過ごすのだ・・・勿論、どちらも車椅子に乗って。
 時にはサンルームで過ごし、ここでゆっくり読書などをしたりする。


 本当の事を言うと僕は・・・自分の足で歩いて、自分の行きたい所に自由に行きたい。

 本を読んだりして過ごすのではなく、もっと他の事をして過ごしてみたい。


 窓が開いたのを確認した僕は、彼女の手を借りて、キチンとベッドから身を起こした。
 彼女に手伝ってもらって寝巻きから普段着に着替えると、ベッド脇に置いている車椅子に座った。


 「・・・ホットミルクを持って来て」

 「はい、ただいまお持ち致します」


 僕は小食なので、朝はホットミルクだけを飲む。
 姉さんは僕の食欲が出ないのをいつも心配しているけれど、元々食の細い僕にはこれだけで十分だった。


 侍女に朝食用のホットミルクを頼む。

 尤も、本当の事を言えば、僕だって・・・色々な物を食べたいのだ。

 だけど・・・それが出来ない。

 それが口惜しくて仕方がない。


 僕を見待ってくれる姉さんは快活に笑いながら、「あら、もういいの?もっと食べなければ体力が付かないわ」と言う。

 確かにその通りだし、僕だって分かってはいるけれど、姉さんから言われる度に苛立っていた。

 僕はいつも心の中で、(それが出来たらどんなに良いか。お願いですからもう言わないで下さい)と念じていた・・・。

 何もしなくても健康な姉さんには・・・僕の気持なんか、全く伝わっていないだろうけど。

 口に出して、そして面と向かって言えればどんなにかいいか。

 だけれど、多分・・・口に出してしまったらきっと姉さんが傷つくからだろうから・・・僕は言葉を飲み込むしかないのだ。


 「ご主人様・・・ホットミルクでございます」


 侍女が朝食用のミルクを運んで来た。

 僕はゆっくりとそれを飲む。

 5分後、僕が飲み終わったので、マグカップをトレイに乗せて辞そうとする彼女に、「あぁ、そうだ。書斎から昆虫図鑑を持って来て。一番厚いカラーグラビアのがあるから」と告げた。

 僕が昆虫図鑑などを頼んだのが不思議に思ったのか、彼女は動きを止めて振り返った。



 「あのぅ・・・いつもの詩集じゃなくて昆虫図鑑でございますか?」


 侍女が余計な事を聞いてきたので、僕はムッとしてきつく睨み付ける。
 「いいから持って来るんだ・・・」
 僕が押し殺した声を出すと、彼女の顔色は真っ青になった。


 「あ・・・申し訳ございません!ただ今、お持ち致します!」


 彼女は怯えたネズミみたいに小さくなって、慌てふためいて部屋から駆け出して行った。


 十数分後、僕は侍女が運んで来た、分厚い昆虫図鑑をめくった・・・。



 夏になると、辺り構わずやかましく騒ぎ立てる蝉は、幼虫の間は土の中で生活している。
 それもかなり長い間だ。
 地上に出て、やっとの思いで成虫に羽化したとしても、たったの7日間しか生きられないのだ。
 ・・・何と哀れな生き物なのだろうか。


 でも、その7日間に、人間の一生分に匹敵する神秘のパワーが秘められているのかもしれない。
 彼等はその短い間に恋をして、確実に子孫を残すのだ。
 そしてその血筋は永遠に続いていく。
 けれど、こんな虫でも出来る事が、僕には決して出来ない芸当なのだった・・・。
 蝉が馬鹿みたいに鳴いているのだって、きっと彼等には彼等なりの存在の為の意義があるに違いない。


 それに比べて・・・この僕はどうだ?


 僕は名誉ある名門貴族の家柄に生まれた。

 誰もが羨む、名門貴族・・・。


 ・・・それなのに。


 僕は恵まれた生活を約束されながら、乗馬やアーチェリーなど、貴族の青年達が必ずやるスポーツをした経験がない。
 それどころか、オペラの鑑賞や舞踏会など、貴族なら必ず行くべき華やかな席に1度だって行った事が無い。

 社交界デビューもしていない。

 ・・・車椅子では、ダンスを踊る事など不可能なので、女性と踊った事がない。

 いや、それどころか、結婚だって出来ないだろう。

 誰も好き好んで、こんな病人と結婚したいとは思わないだろう。

 僕が逆の立場だったとしても、病人との結婚なんてごめんだ。


 他の貴族達が当たり前のように享受している山海の珍味・・・美食だって、僕は物心付いてから1度もした事が無いのだ。
 それらは、僕を診る医者に言わせれば、“毒”でしかないらしい。
 生命を維持するのにギリギリのほんの少しの食事と点滴・・・それが、僕に与えられた、生きる為の“食事”なのだった。


 ただ“貴族”であるというだけで、平民以下の侘しい暮らしで、面白い事なんて何一つない。
 ・・・僕がしてみたいと思う全てが、この僕の蝕まれた弱々しい身体には毒だなんて、僕はこの世に生まれた価値がないではないか。


 極限まで痩せて・・・。
 骨と皮ばかりになった細く白い腕と、頬肉が削げ落ちて生気の無い顔・・・。
 両腕とも点滴のせいで、どす黒い痣がいっぱい浮かんでいた。

 眼を背けたくなるような不気味さを醸し出す腕・・・。
 深層の令嬢ならば、僕の姿を見たら幽霊だと思って卒倒してしまうかもしれない。


 ・・・どうして、僕はこんな、みじめで哀れな姿なのだろう?
 生きていても特に意味があるとはとても思えない・・・可哀相な僕の身体。
 鏡に映った僕は・・・本当に幽霊そのものだ。


 あぁ・・・。
 姉さんぐらい・・・元気があれば・・・。
 健康ならば、僕だってもう少しは楽しい事を考えたりも出来るのに・・・。

 何故、大神オーディンは、僕のような者を生かしておくのだろう?

 僕は生きていて、意味があるのだろうか??



 「ご主人様、もうそろそろ皇帝陛下の行幸のお時間となりますので、どうぞ、お支度を・・・」


 畏まった執事が僕の元へやって来て告げた。

 そう・・・。


 今日はあの皇帝陛下が・・・こんな僕の所へ時間を割いて来て下さる。
 あの黄金色に輝く、若き皇帝を拝する事が出来る・・・とても栄誉ある日なのだ。


 望んだからと言って、陛下の行幸が叶う人はそう多くは無い。
 やはり僕は恵まれた存在・・・なのだろう、一般的に考えたら。
 そして、その段取りをしてくれた姉さんや伯父上には感謝しなければならない・・・。
 勿論、わざわざ僕の為にお越し下さる皇帝陛下にも・・・勿論、感謝申し上げねば・・・。


 「・・・礼服に着替えるからすぐに人を寄越して。キチンと支度をしなくてはね。・・・いくらなんでも、皇帝陛下に、こんな普段着で会う訳にはいかないから」


 僕が嬉しそうに言うと、執事も微笑んだ。


 「ご主人様、宜しゅうございましたな、皇帝陛下のご行幸など・・・滅多にない事、光栄でございましょう」

 「あぁ、本当だ。今日は・・・喜ばしい日だな。だから、急いでおくれ」

 「はい、ただ今」


 執事は僕が心から喜んでいると思っている。

 笑顔のまま下がって行った。


 確かに僕は喜んでいる。

 けれど、それは、皇帝陛下のお目通りが叶うからではない。

 もっと別の意味で・・・喜んでいるのだ。

 僕は、心から、“生きていて良かった”と思いたい。

 生きていたという確かな証が欲しい・・・。
 そして、僕という人間がこの世に存在している事を多くの人に知ってもらいたい・・・。


 僕も皇帝陛下のように、歴史の中にその名を残したい。
 たとえ他人から見たら馬鹿げていると思える事であっても、何か重大な事を成し遂げてから死んでゆきたい。


 妙な宗教の口車に乗っている僕を、「馬鹿なヤツ」だと笑いたければ笑うが良いのだ。

 あの人達は・・・僕の抱えている心の闇や苦しみを分かってくれた。

 僕の話を黙って聞いてくれた。

 そして、僕が生きていた証を立てる方法を考えてくれた。

 僕はこういう身体だから、準備が出来ないのを知って、僕の為に色々と便宜を図ってくれた。


 あの人達が本当はどんな人達で、本当は何を目的としているのか・・・そんなのはどうでもいい事だ。

 何故なら・・・僕にはもう、残された時間が無い。

 彼らが何をするのか・・・最終的局面に僕は生きていられないのだから。

 だけど・・・。

 僕がどんな方法であっても、たとえ不名誉と呼ばれるような事であっても、“この世に名前を残したい”と思っている事を、彼等は進んで手助けしてくれる。

 それだけで・・・僕は満足だった。


 だから、あの人達への恩返しの為にも、僕が生きていたという証を立てる為にも・・・これは絶対に成功させなくてはいけない。



 ・・・地に落ちた、惨めで哀れな死骸となる前に。




 Das Ende




 100のお題より、「蝉の死骸」です。


 あえて名前は出しませんでしたが、銀のファンならば、すぐに誰か分かりますよね・・・そう、ハインリッヒ・フォン・キュンメル男爵です。


 『蝉の死骸』と言うタイトルを見た瞬間に、彼にしようと決めました。
 姉さんってのはヒルダの事です。


 それにしても凄く暗いなぁ・・・。(T-T)
 地球教徒に捨て駒にされたのも哀れですし、彼は本当に気の毒な人だと思います。


 しかし、三ツ矢雄二さんがこの役なんて凄いです・・・。
 ここまで病的に暗い役だなんて。
 三ツ矢さんと言えば、『タッチ』のたっちゃんとか、『六神合体ゴッドマーズ』のマーグとかが有名なのですが、ちょっとしか出なかったのに強烈だったこの役・・・違う意味で凄かったです。


 多分、アンドリュー・フォーク役の古谷徹さんに匹敵するほどの役じゃないかと思います。


 今、ふと思ったのですが、ヒルダの従兄弟って事は彼もカストロプ公の親戚なんでしょうかね?
 マリーンドルフ伯は親戚ですから、キュンメル男爵家もそうなのかなぁ??って。


 しかし、ろくな親戚がいなかったのに、国務尚書の座を勝ち取ったマリーンドルフ伯って、違う目で見たら凄い人ですよね。
 さすが、ヒルダの父ちゃんだ!!って思いました。


 ここから先は12/3に書いております。


 ハインリッヒが、メックリンガーから絵を貰うシーン。

 OVAを見ていて、ふと思ったのは、コレ・・・本当に欲しかったのだろうか??と。

 もしも、大して欲しくもないのに、ヒルダの手前・・・喜んでいるだけだったら??と、穿った見方をしてしまいました。


 健康なヒルダを見ていて、彼は従姉妹を恨めしく、羨ましく、憎らしく思ったのではないかと。

 どうして自分が、彼女のようではなかったのか??と。

 健康そうで、まるで男性と同じように行動出来て、皇帝陛下の秘書官である美しい従姉妹。

 絶対に、羨望の眼差しで観るだけの存在ではなかったと思います。

 腹の中では腸煮えくり返るぐらい、ヒルダの事を見て、悔しい、恨めしい、憎らしい、羨ましい、疎ましい、妬ましい・・・そんな存在だったのではないかしら?


 けれど、ハインリッヒは、それらの感情を表に出す事は無く、いつもグッと飲み込んでしまっていて、だから誰も彼の心の中の葛藤に気付く事は無く。

 彼の負の感情に気付き、そこに付けこんで彼を巧みにコントロールして、自分達の持ち駒の一つにしようとしたのが地球教徒。

 彼らだけが・・・彼の本当の気持ちを知っている。

 ハインリッヒがそう思って、自ら進んで計画実行をしようとしたのなら、本当に哀れです。

 もっと早く、気付いてあげるべきだったのに。

 そう、もっと心配りをしていたら、ハインリッヒが地球教徒に接触しても、それを排する事が出来たはずです。


 だって、彼は自由に動く事が出来ません。

 怪しい人物に接触するにはかかりつけの病院内でか、或いは、屋敷内に出入りする人物だけに限られます。


 可哀相な子・・・として見るだけで、彼が抱えた心の闇を理解しようとしなかったツケが噴出したのです。


 ヒルダは仕方ないにしても、マリーンドルフ伯にも責任の一端はあると思う。

 資産を管理し、治療を受けさせるだけ・・・確かに必要な事だけど、人間的な優しさや愛情をもっと注いであげるべきだったのでは??

 まぁ、それを言ってもせんない事ですが。


 キュンメル事件を読んだり、OVAを見たりする度に・・・可哀相になりますよ、この青年が。

 ・・・まぁ、彼の望み通り、歴史に名前を残す事にはなりましたが・・・。

 後味悪過ぎる・・・本当に。

 

 ゴールデンバウム王朝ならば、マリーンドルフ伯の一族は間違いなく処刑対象です。


 もしそうなっていたら、銀河の歴史は更に大きく変わり、ラインハルトはもっと歪んだ支配者になっていくかもしれませんね・・・あぁ、そうならない事を祈りたいですよね。