その日の朝・・・目覚めたのは午前6時半ちょうど。

 ベッドサイドの時計を見て僕は、「もう、朝なんだな・・・」と呟いた。


 「良かった・・・。僕は今日も生きている・・・」


 ハッキリと目覚めた僕は、今日も何とか生きていられた事に安堵の吐息を漏らす。


 いつもいつも、朝が来なかったらどうしよう・・・目覚めなかったらどうしよう・・・そんな事を考えて生きている。

 ゆっくりと身体を動かす。
 じっとりと汗ばんだ手を握り締めて、それから、その手をゆっくりと広げてみる。


 まず目に入るのは壁の絵画。
 この絵は「文人提督」と名高いメックリンガー提督が自分で描いた水彩画だ。

 最近、姉さんから頼まれたのだろう・・・提督が僕への見舞いの品として描いて下さった物だ。
 やがて絵から目を逸らし、窓の方にゆっくりと首を動かす。
 毎朝、僕はこの単調な動作を繰り返す。


 そして、手が動く事、目が見える事、首が動く事を確認して、安堵するのが日課といってもいい。

 普通の人が当たり前だと思っているこんな動作でも、僕にとってはとても貴重な事なのだ。
 特に今日の場合は、本当に“生きていて良かった”と、天にいる大神オーディンに感謝しなくては・・・と本気で思った。


 やがて僕は、ベッドサイドに置いてある小さな金の呼び鈴を鳴らした。


 「おはようございます、ご主人様」


 硬い表情で現れた侍女は、いつものように重いカーテンを開ける。
 室内に朝の太陽光が差し込んだ。
 その眩しさに思わず目を細める・・・いつも室内にいるせいか、僕の目には太陽の眩しさはかなりつらいものだった。
 僕は殆ど外には出ないが、太陽の光を多少でも浴びた方が身体にはいいと医者に言われている。
 それで、僕は普段の日中は車椅子に乗って、嫌々ながらもその窓辺で過ごすのだ。
 時にはサンルームで過ごし、ここでゆっくり読書などをしたりする。


 窓が開いたのを確認した僕は、彼女の手を借りて、キチンとベッドから身を起こした。
 彼女に手伝ってもらって寝巻きから普段着に着替えると、ベッド脇に置いている車椅子に座った。
 そして彼女に朝食用のホットミルクを頼む。
 僕は小食なので、朝はホットミルクだけを飲む。
 姉さんは僕の食欲が出ないのをいつも心配しているけれど、元々食の細い僕にはこれだけで十分だった。


 それから、侍女に、ついでに書斎から昆虫図鑑を持って来るように告げる。
 僕が図鑑なんて頼んだものだから彼女は驚いて、「あのぅ・・・いつもの詩集じゃなくて昆虫図鑑でございますか?」と余計な事を聞いた。
 僕はムッとしてきつく睨み付ける。
 「いいから持って来るんだ・・・」
 僕が押し殺した声を出すと、侍女の顔色は真っ青になった。


 「あ・・・申し訳ございません!ただ今、お持ち致します!」



 彼女は怯えたネズミみたいに小さくなって部屋から駆け出して行った。


 十数分後、僕は運ばれてきた温かいミルクをゆっくりと飲みながら、侍女が書斎から持って来た分厚い昆虫図鑑をめくった・・・。




 夏になるとやかましく騒ぎ立てる蝉は、幼虫の間は土の中で生活している。
 それもかなり長い間だ。
 地上に出て、やっとの思いで成虫に羽化したとしても、たったの7日間しか生きられないのだ。
 ・・・何と哀れな生き物なのか。

 でも、その7日間に、人間の一生分に匹敵する神秘のパワーが秘められているのかもしれない。
 彼等はその短い間に恋をして、確実に子孫を残すのだ。
 そしてその血筋は永遠に続いていく。
 けれど、こんな虫でも出来る事が、僕には決して出来ない芸当なのだった・・・。
 蝉が馬鹿みたいに鳴いているのだって、きっと彼等には彼等なりの存在の為の意義があるに違いない。


 それに比べて・・・この僕はどうだ?


 僕は名誉ある名門貴族の家柄に生まれた。

 誰もが羨む、名門貴族・・・。


 ・・・それなのに。


 僕は恵まれた生活を約束されながら、乗馬やアーチェリーなど、貴族の青年達が必ずやるスポーツをした経験がない。
 それどころか、オペラの鑑賞や舞踏会など、貴族なら必ず行くべき華やかな席に1度だって行った事が無い。
 他の貴族達が当たり前のように享受している山海の珍味・・・美食だって、僕は物心付いてから1度もした事が無いのだ。
 それらは、僕を診る医者に言わせれば、“毒”でしかないらしい。
 生命を維持するのにギリギリのほんの少しの食事と点滴・・・それが、僕に与えられた、生きる為の“食事”なのだった。


 ただ“貴族”であるというだけで、平民以下の侘しい暮らしで、面白い事なんて何一つない。
 ・・・僕がしてみたいと思う全てが、この僕の蝕まれた弱々しい身体には毒だなんて、僕はこの世に生まれた価値がないではないか。

 極限まで痩せて・・・。
 骨と皮ばかりになった細く白い腕と、頬肉が削げ落ちて生気の無い顔・・・。
 両腕とも点滴のせいで、どす黒い痣がいっぱい浮かんで、眼を背けたくなるような不気味さだ。
 深層の令嬢ならば僕の姿を見て卒倒してしまうかもしれない。

 ・・・どうして、僕はこんな姿なのだろう?
 生きていても特に意味があるとはとても思えない・・・可哀相な僕の身体。
 鏡に映った僕は幽霊そのものだ。


 あぁ・・・。
 姉さんぐらい・・・元気があれば・・・。
 健康ならば、僕だってもう少しは楽しい事を考えたりも出来るのに・・・。


 「ご主人様、もうそろそろ皇帝陛下の行幸のお時間となりますので、どうぞ、お支度を・・・」


 畏まった執事が僕の元へやって来て告げた。

 そう・・・。


 今日はあの皇帝陛下が・・・こんな僕の所へ時間を割いて来て下さる。
 あの黄金の若き皇帝を拝する事が出来る・・・とても栄誉ある日なのだ。
 望んだからと言って、陛下の行幸が叶う人はそう多くは無い。
 やはり僕は恵まれた存在・・・なのだろう、一般的に考えたら。
 そして、その段取りをしてくれた姉さんや伯父上には感謝しなければならない・・・。
 勿論、わざわざ僕の為にお越し下さる皇帝陛下にも・・・勿論、感謝申し上げねば・・・。


 「・・・礼服に着替えるからすぐに人を寄越して。支度をしなくてはね。・・・いくらなんでも、こんな普段着で会う訳にはいかないから」


 僕が嬉しそうに言うと、執事は「畏まりました、ただ今」と下がって行った。


 僕は、心から、“生きていて良かった”と思いたい。

 生きていたという確かな証が欲しい・・・。
 僕という人間がこの世に存在している事を多くの人に知ってもらいたい・・・。
 僕も皇帝陛下のように、僕だって歴史の中にその名を残したい。
 たとえ他人から見たら馬鹿げていると思える事であっても、何か重大な事を成し遂げてから死んでゆきたい。



 ・・・地に落ちた、惨めで哀れな死骸となる前に。




 Das Ende




 100のお題より、「蝉の死骸」です。


 あえて名前は出しませんでしたが、銀のファンならば、すぐに誰か分かりますよね・・・そう、ハインリッヒ・フォン・キュンメル男爵です。


 『蝉の死骸』と言うタイトルを見た瞬間に、彼にしようと決めました。
 姉さんってのはヒルダの事です。


 それにしても凄く暗いなぁ・・・。(T-T)
 地球教徒に捨て駒にされたのも哀れですし、彼は本当に気の毒な人だと思います。


 しかし、三ツ矢雄二さんがこの役なんて凄いです・・・。
 ここまで病的に暗い役だなんて。
 三ツ矢さんと言えば、『タッチ』のたっちゃんとか、『六神合体ゴッドマーズ』のマーグとかが有名なのですが、ちょっとしか出なかったのに強烈だったこの役・・・違う意味で凄かったです。


 多分、アンドリュー・フォーク役の古谷徹さんに匹敵するほどの役じゃないかと思います。


 今、ふと思ったのですが、ヒルダの従兄弟って事は彼もカストロプ公の親戚なんでしょうかね?
 マリーンドルフ伯は親戚ですから、キュンメル男爵家もそうなのかなぁ??って。


 しかし、ろくな親戚がいなかったのに、国務尚書の座を勝ち取ったマリーンドルフ伯って、違う目で見たら凄い人ですよね。
 さすが、ヒルダの父ちゃんだ!!って思いました。