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学校と家庭

 子どもたちを、自分たちの社会で一人立ちできる人間に育てるのは、学校と家庭に、それぞれの役割がある。しかし、学校と家庭の役割分担、また協力のあり方は決まっていない。


 ことしの成人式を伝えるテレビニュースは、昨年同様、新成人のマナーの悪さを話題の中心にしていた。このような若者の問題の原因は、家庭にある。また、最近の親は、子育てを学校に任せ過ぎるという声もよく聞く。


 数年前、「学校で歯の磨き方まで教えなければならない」と、自分の忙しいスケジュールを説明する小学校の先生に出会った。


 アメリカへ里帰りした時、学校と家庭の協力について再び考えさせられた。私は、実家の町の小学校を訪ねた。朝9時ごろ学校に着くと、20台くらいの大型スクールバスが次々に入ってきた。子どもの服装はさまざまで、カラフルだった。校内も明るく、鮮やかな色が多かった。


 教室の様子も、日本の学校と違っていた。各教室には子ども24人に対して、先生1人とアシスタント1人がいた。先生の手伝いをするアシスタントの方々は、PTAのボランティアだそうだ。


 低学年の教室には、机がなかった。その代わりに6人が座れるテーブルを使い、子どもたちは決められたテーブルであれば、どの席に座ってもいいらしい。私が訪ねた1年生のクラスは、その日は宿題はなく、教科書もいっさい使わなかった。


 日本の学校にはなくてはならない連絡袋も存在しない。先生から子どもの家族への連絡は、問題が起きない限りないそうだ。計画帳もなく、親がサインをすることもない。学校の勉強は、子ども一人ひとりと先生の間だけのことだと考えている。


 アメリカの学校では、親はPTA活動に参加して学校のサポートはするが、家庭で親が勉強の指導をするのをあたりまえとは思っていない。学校には学校の役割り、家庭には家庭の役割がある、と考えているからだ。


 人間は、日常的な環境に慣れるのは当然だが、慣れすぎるとそのよさが見えなくなる場合がある。最近の親は、学校に子どもを任せ過ぎるといわれている。


しかし、日本の場合は、学校と家庭との間のコミュニケーションが、アメリカよりも非常によく取れている。このような協力が、日本の教育の優れたところだ。私は残しておくべきだと思う。

第8回 英語教育の行方

このところ、日本では、英語学教育の見直しが話題になっている。平成14年の教育改革で、英語を小学校教育に導入することになった。しかし、教える方法を考える前に、もっと大切なことがあると感じる。それは、なぜ母国語以外の言葉を教えるか、ということである。


数年前の1月、アメリカで小学校の言語教育の一例を見た。訪ねた小学校では、児童に日本語を教えていた。先生はアメリカ人と結婚して、近くに住む日本人女性。アシスタントは若いアメリカ人で、日本で数年間、英語を教えた経験があるひとだった。児童全員が週1時間、日本語の授業を受けることができる。


私が見学した1年生の授業では、先生との簡単なあいさつの交換から始まった。先生が英語で日本の正月の話を終えると、全員で「あけましておめでとうございます」の練習をした。そのあと、同じ言葉を書く練習にかかる。自分の名前をカタカナで書くのに、児童たちは一所懸命だった。

生徒たちが書いている間、先生は日本の小学1年生から届いた手紙を配った。手紙には、お正月のコマやタコ、そしてドラエモンのキャラクターの絵もかかれていた。文章はあまり書かれていなかった。


上にアメリカの児童の名前がカタカナで、下にそれを送った日本の児童の名前が書かれているだけ。それでもアメリカの児童は大喜び。もらった手紙を友だちと見せあい、相手が男の子か女の子か聞いたりして、「おてがみありがとう」の練習をした。1時間があっという間に過ぎた。


この学校は、なぜ、日本語の先生とアシスタントまで雇って日本語の教育を始めたのだろうか。学校によると、世界のことを学ぶのを目的としているそうで、本から学ぶだけではなく、深く世界の人々のことを理解するためには、直接コミュニケーションを取る必要があるということだ。


児童も、ほかの国の言葉を学ぶ理由がはっきりしている。「日本にいるお友だちと話したい」「手紙を書いたり、もらったりしたい」と。この1年生たちは、はっきりした目標を持っている。自分たちとは違った世界の人々に興味を持ち、コミュニケーションを取りたがっている。

日本の場合はどうだろうか。学校側も、生徒側も、英語を学ぶ理由をはっきりさせていないような気がする。目的をはっきりしない限り、英語教育の行方は定まらないと思う。


第7回 自動車の文化

 アメリカは自動車の国だ。車を愛し、道路を増やし、社会や自然環境にまで大きな影響を与えてきた。自動車は、個人の自由を主張するアメリカ人の価値感にピッタリだった。車さえあれば、時刻表を捨て、自由に動くことができる。


 デトロイトの各自動車メーカーは、個性を表現できるような車を、競ってデザインした。各家庭では車庫を作った。街の商店街には、広い駐車場が必要となっていった。


 そうした30年程前にアメリカで見た現象が、最近、日本でも起きている。若者たちは、ネオンや色つきランプなど、いろいろとカスタマイズされた車に乗っている。デコレーション・カーとでもいえばいいくらい派手なものもある。日本にも、自己表現したい人が増えたようだ。


 最近の日本は、どこも車があふれている。迷惑駐車もひどくなった。車の排気ガスが街の空気を汚している。このような問題を持ちながらも、日本は懸命に道路整備を行い道路を新設している。橋の建設も車が中心だ。瀬戸大橋は列車も通れるが、しまなみ街道には列車は通っていない。


 四国中に広がっていく高速道路は、アメリカと同じようにいろいろな影響を、街や自然に与えている。インター周辺の開発が、街の中心にある商店街から客を奪い、従来の商店街の移動や分散が起きた。高速道路周辺の動植物の移動や死滅もそうだ。


 個人の車が増える一方、バスやローカル列車の本数は少なくなる。自家用車以外での交通の便が悪くなり、さらに車の必要性が増す。このような悪循環の状況では、車を運転しない人々が、だんだん不便な生活を強いられる。高齢化がすすむ日本では、当然、運転しない人も増加するはず。


 20世紀のアメリカは、車を中心に考えた道路整備に力を入れた。その間、日本は優れた鉄道網を全国へ伸ばした。21世紀中には石油がなくなるといわれている。もっと悲観的に考える人々は、あと10年ほどしかないといっている。


 近年、アメリカでは、日本やフランスの技術を学び、最新の旅客列車を検討する地域が多くなってきた。自動車社会の充実に膨大な力と金を使おうとしている日本は、間違っていないのだろうか。

第6回 一言で注文できる日本の食堂

 日本の食堂は、非常に能率的だ。一言で注文ができる。「とんかつ定職」「日替わりランチ」。まるで現代社会の忙しい人のためにできているようである。あまり考えないで注文ができる。


 日本語を自由に使えない外国人にも注文しやすい。定食にしておけば、完全な食事が出てくる。汁もの、酢の物、ちょっとしたフルーツまで。食べ物の名前を知らなくても、いろいろなものを味わえる。日本に来て間もないころ「定食」で日本料理に親しくなれた。


 アメリカのレストランは、慣れていない人にはやさしくない。定食のような物はまずない。注文するには決めなければいけないことが山ほどある。メーン料理を決める。肉類を選ぶと好みの焼き具合。メーン・ディッシュには野菜とサラダと炭水化物(パスタ、ライス、ポテト)がついてくる。


 サラダのドッレシングは、普通のお店で5種類はある。ポテトにすると2、3種類のポテト料理から選ぶ。それにかけるバターやサワークリームまで決めなければならない。それに、飲み物や野菜、果物にデザートなど。一人ひとりの客の注文を繰り返し聞いていく。


 マグドナルドのようなファーストフードでも、「たまねぎなしで」とか「ケチャップを多めに」などと注文できるところが多い。それは、お客さん一人ひとりの好みに合わせるため。あくまで、お客さんに細かく決めてもらうところが、アメリカのレストランのサービス意識の見せどころ。


 アメリカの個人主義社会では、相手に選択を与えるのが常識。それだけに、個人で決めなければならないことが多くなる。自分の意識や意見をはっきりさせなければいけない。選択を与えられて「何でもいい。お任せします」と答える人は相手を困らせる。
   
 自分の好みを聞いてくれた人に選ばせるのは、アメリカではよいこととはされない。しかも、自分の意見がない「弱虫」と思われる恐れがある。一人前になるには、自分が「どう考えるか」をはっきりさせ、自分の言葉で発言できるようにならないといけない。


 それで、親は子どもの意見を大事にし、その意見を上手に相手に伝えられるように育てる。だが、忙しい現代社会の人々には、アメリカのレストランでの面倒な注文より、日本の「定食」のほうがあっていると、私は感じている。


第5回 携帯電話と交通安全

私は、毎年、母国アメリカに里帰りをする。そのたびに、アメリカの最新事情を得ることが、楽しみの一つになっている。


近年、アメリカも日本と同様に携帯電話の利用が大幅に増えた。その利用者はアメリカ全土で8千万人を超えている。車社会のアメリカでも運転中の携帯電話の使用の安全性が、やはり問題になっている。


基本的に意見は、「便利だから個人に任せたほうがよい」と「社会の安全のため法律が必要」という2つに分かれる。そこうした意見の調整は、どこの社会にもある。「個人の権利」対「社会全体の幸せ」は、人間社会永遠の論争点でもある。


現代人の生活はあまりにも忙しく、昔からの価値観が変わろうとしている。他人に対しての責任を忘れた人が増え、個人のわがままが優先されている。しかし、携帯電話の場合には、このわがままが事故につながる。


法律化に反対する人の多くは「使用時に気をつける」という。しかし、カナダのトロント大学の研究で「運転中に携帯電話を使用すると事故の可能性は4倍に増える」ことがわかった。これは飲酒運転と同じ倍率だ。


現在、9つの国が運転中の携帯電話の使用に法律を設けた。日本では、1999年に法律ができた。イギリス、スウェーデン、スイス、オーストラリア、イスラエル、イタリア、そしてシンガポールにもある。


2000年11月にアメリカの全国版の新聞「USA Today」がアンケートを行い、「運転中の携帯電話使用禁止を法律化すべきか」という質問をした。それに対して、イエスが61%、ノーが39%であった。


アメリカ人の多くは携帯電話法を望んでいるらしい。


アメリカは、各州、各市が法律を作る権利を持っているため、全国の法律は少ない。いま、完全に運転中の携帯の使用を禁止しているのは、オハイオ州のブルックリン市ともう一つの町だけ。ブルックリン市は1966年にアメリカで初めて、シートベルト着用法を制定した市として知られている。アメリカ全土での法制化は、まだ先のことのようだ。


確かに現代人は忙しい。だが、運転しながら電話をすることで他人を危険な目にあわせているのだ。私たちの生活を考え直す必要があると思う。

第4回 恵まれている日本のごみ収集<br />-いつまで続くぜいたくなごみ-

きょうは燃えるごみの日。きのうはプラスティック。その前の日はカンやビン。週5回ごみを取りにきてくれる。それもただで。


日本人は、ほんとうに恵まれている。「分別がいやだ」とか「どの袋でもいいじゃない」と思う人はいるだろうが、ごみをたくさん作っても、すぐに集めにきてくれるのだから。


だが、いつまでも甘えつづけられない。ごみの分別やリサイクルが面倒でも、これからの社会に大切なことと、国民が理解するまで努力が必要だ。もっと重要なのは最初からごみを作らないことだ。


アメリカの場合は、州や町によってごみ処理は異なる。私の住んでいた町では、ごみ処理会社と契約し、取りにきてもらっていた。それも1週間に1回だけ。もちろん有料だった。


家のごみ1週間分を、子どもがかがんで入れるくらいの大きさのポリバケツに入れ、ふたを閉めて、朝早く道端まで運ぶ。リサイクルできる物は、別にリサイクルセンターに自分で持っていった。その町はまだいい方だった。


別の州にある私の実家の町には、サービス業者もいない。各家庭は、ごみ集積所まで、往復に1時間かけて自分の車で運んだ。持ち込んだごみは、その場で分別。集積所の利用は住民に限られ、1年間分の使用料を支払い、車に許可証を張って、やっと入所できる。


ごみを捨てるのは楽ではない。ごみの不法投棄の取り締まりも非常に厳しい。だから、みんなが自分のために、ごみをできるだけ作らないよう、努力することになった。


日本の文化だった風呂敷を見かけなくなった。代わってビニール袋やラップは、日常生活に欠かせない物になり、だんだんエスカレートしている。


きのうパン屋さんで、カレーパンを3個買った。1個ずつ小さな袋に入れ、さらにそれらをお店の袋に入れてくれた。たった3個のパンで、ごみが4枚できた。確かにそれは清潔で気持ちがいい。でも、3個とも1つの袋に入れても汚くはない。いつまでこんなぜいたくを続けられるだろうか。


お店は、お客さんからの声に反応する。私たちは、将来のための選択をしなければならない。ごみの減量を、私たち自身からお願いするか。または、アメリカのように、経済的、法律的に、ごみの減量を余儀なくされるのだろうか。

第3回 不便さは親が我慢をしてチャイルドシートの履行-愛媛は全国のワースト・ワン-

子どもの安全は、どこの国の親にとっても一大関心事である。心配する内容に異なる点があっても、交通事故については、どこの国も変わらない。アメリカも日本も同様で、毎年、多くの子どもの命が、交通事故によって奪われている。


少しでも犠牲になる子どもを減らそうと、大人たちは危険性を子どもに教える。だが、幼い子どもを交通事故から守ることができるのは、大人たちしかいない。とくに親だ。


アメリカには、幼い子どもを車に一人残してはいけない法律がある。車での移動の際のチャイルドシート着用も、義務付けられている。違反した場合の罰則も厳しい。数年前、ある親が交通事故を起こし、一緒に乗っていた子どもが亡くなった。その親は、チャイルドシートの着用を怠ったという理由で、殺人の罪に問われた。


日本にも、ようやくチャイルドシート着用の法律ができた。私には、遅すぎると感じた。しかし、満足に歩けないくらいの子どもが、走っている車の助手席に立っていたり、子どもを抱きながら運転したり、チャイルドシートを備え付けていながら、子どもはその横に立っていたり、といった場面をいまだによく見かける。


そういう親に限って、自分はちゃんとシートベルトを着用している。「なぜ、日本人は大人の安全しか考えないのか。子どもはどうでもいいのだろうか」いつも不思議に思っている。


アメリカ人には、「法律を無視するのは個人の勝手だ」と考える人は多い。しかし、子どもを危ない目に遭わせることは許さない。それは、子どもは生まれたときから「個々の人」であり、親のものではないと考えているからだ。


子どもに対する保護の怠慢が確かめられたら、親が逮捕される場合があり、政府が子どもを取り上げて預かる場合もある。親としての義務を無視すると、親としての権利を失うということだ。


チャイルドシートは決して安くはない。不便なことも多い。子どもも嫌がることだってある。しかし、日本人は我慢することができる。子どもの命がなくなったら、二度と戻ってこない。


私たち親は、子どものためなら我慢できると思う。愛媛県のチャイルドシートの着用率は、全国のワースト・ワンと聞く。汚名返上のためにも、子どもを守るためにも、親の我慢が必要だ。

第2回 「買い物をする場所」から「楽しく過ごせる場所」へ-それぞれの特長を生かし-

30年前、アメリカの多くのダウンタウン(昔からある繁華街)が、次々に死んだ。私は、そのころのことを覚えている。高速道路は街の横を通り、インターチェンジの辺りには大きな店ができた。


その影響で街の「商店街」は競争ができなくなり、少しずつ店を閉めた。にぎやかだった街の中心地が静かになり、空き店舗が目立つようになった。個人経営者の店がチェーン店に負けたのだ。


同じ現象が日本でも起きている。インター周辺の発展が多くの商店街に影響を与える。また、大きな駐車場を持つ新しい大型店の進出が、同じ結果を生んでいる。いたるところで廃業した店が目立つ。


ここにきて、ようやくアメリカのダウンタウンが回復し始めている。30年かかった。店の経営者と行政が協力して、一緒に考え、一緒に再スタートを切った。大きいチェーン店はどこに行ってもあまり変わらない。客を消費者としてしか考えていないのだ。


アメリカの商店街は、大型チェーン店に対して、「買い物をする場所」から、「楽しく時間を過ごす場所」を目指した。それぞれの店の特長を生かし、みんなで考え協力しあい、新しい独特の場所を作った。友達や家族と一緒に出かけられる面白い「目的地」ができた。


日本でも、商店街を復活させることは十分できると思う。しかし、いままで以上の協力が必要だ。たとえば、商店街には使用されていない店舗がたくさんある。一方で、若者が生まれ育った地域から離れていく問題がある。


空き店舗を店を持ちたい若者に、1、2年間、無料で貸してはどうだろう。新しい魅力のある店が生まれるかもしれない。また、こういうチャンスを与えることで、若者が地域に残る可能性も高い。


最近は、インターネットで全国や世界中の品物が手に入る。しかし、忙しい生活の中で、近くにあって友達や家族と楽しくゆっくりできる場所は少ない。商店街の将来はそこにあると、私は、思う。

第1回 氷点下20度の土地より新居浜の方が寒いわけは-我慢と身を守ることは別-

この冬の新居浜市はひどく寒かった。雪も降り、氷も張った。私の実家はアメリカの東海岸にある。冬は氷点下20度まで下がることも珍しくないが、私には、新居浜のほうが寒いと感じる。


アメリカの建物の中は、一年中、同じ温度に保たれている。仕事や勉強など目的に合わせて、室内は最適な温度に保たれている。季節にあわせるのではなく、部屋を必要な温度に保つためだ。


寒くなれば暖房が働き、暑くなれば冷房が稼動する。北の地方では、冬の間中、留守にするときも暖房をつけっ放しにしている。建物の中のパイプが凍って破裂するのを防ぐためだ。


日本の住まいは、人が居る場所だけを暖める。この方法は一面で経済的ではある。しかし、その場所を離れると、家の中であっても外の温度とさほど変わらない。日本の家は冬の居心地はよくない。


アメリカでは、家の中が暖かいので冬でも厚着をしない。外出の前には、天気予報や空の様子を見て服装を決める。体を冷やすと病気になりやすいので、外出時の服の選び方には気を使う。その日の天候に合った服装を、自分で選べるようになるまで、親と学校の先生らが見守り、注意をする。


日本の子どもに対する服装の教育は違うように思う。家にいるときは暖かい服を着ている。しかし、登校するときは学校の決まりで、気温を無視した季節の服装にしているところが多い。聞くところによると、登校中に手袋を禁じている高校もあるそうだ。冷たくて鉛筆が持てなくなるのに、手袋を我慢する理由はない。


昔から、日本では「子どもは風の子」といわれる。しかし、「我慢すること」を子どもに教えることと、寒いときに自分の体を服装で守ることを教えることとは、まったく別のことだと考える。


寒さを無視した服装がつづくと、「子どもは風邪の子」といったほうがよいような気がする。